その境界線は。
高町なのはを全力全開で愛していく。そんな小説を書いてます。
星たちの休日―3 2008/02/28
スターズ分隊の話で、『星たちの休日』第三話。
2.雷の忠告の続きです。
スバルは、カゲで頑張ってる。でも実はそれはカゲではなく、ガケかもしれない。
と謎な言葉を吐きつつ。
よろしければ、続きよりどぞ。
星たちの休日
3.星宿から逸れた射手
深呼吸をする。その拍子につい声が漏れてしまう。その声はどちらかというとうめき声に近い。そんなうめき声をあげるのは一人しかいなかった。
それは自分。全力全開とヴィヴィオが大好き、高町なのは。
と、こうして自分の事を客観的に見ると、いかに自分が恥ずかしい声をあげてしまったのかということが分かる。
スバルとティアナがいなくてよかった。もしくは二人がいるときにもそんな声を出してしまっていたかもしれないが、そこはおそらく気力で何とかしているはずだ。私は我慢強いから。『ゆりかご』内部で仲間が負傷している映像を見せられても、唇を噛み締めることで――それも一人になってから――耐えた。
だけど何だろう、この気持ち悪さ。いっそ胃を取り出して地面に叩きつけてしまいたい衝動に駆られる。だが勿論そんなことは出来やしない。
手にしたペットボトルを傾け、一口だけお茶を含む。すぐには飲み込まない。口腔に滲ませながら、少しずつ嚥下していく。それでようやく、心なし楽になった気がする。――これはお茶に含まれるティアナの優しさだ。
とある製薬会社が、ある薬の謳い文句で「これの半分は優しさでできている」というのがあった。テレビで聞いたときには、『成分の誤表』だと思ったものだ。実際薬の中に優しさなんてものが入っているはずはない。そこには薬剤師がその頭に記憶した通りに調合した粉末しか含まれていない。自分が手にしているお茶にもし「半分が優しさでできている」なんて表記がしてあれば、怪訝な顔で目を逸らしたあと、今まで何を見ていたかすら記憶に残らないくらいどうでもよいことになり下がっている。だが、それでもこのお茶には確かに「優しさ」が入っている。売られているお茶とこのお茶とでは、私にとって全くの別物であるのだ。
お茶を半分ほど飲んだら、気分も落ち着いてきた。私は畳の上に寝転がる。壁に山の描かれた無彩色の掛け軸があった。開け放たれた障子を挟んだ向こうには炬燵もある。
この純和室な部屋を選んでくれたのは、母だった。洋菓子店を営んでいる母だから、話を聞いた時には驚いたものだ。しかし決して不快というわけではない。居心地が悪いとも思わない。それどころか、日本の心というものを特に持ち合わせていない自分でも、何か落ち着く空間だった。恐らく自分にはわからない、人間の心理を計算し尽くされた設計と構築がなされているのかもしれない。
――ヴィータちゃんも来られれば良かったのに。
考えながら、ごろりと横になる。畳の上に寝転がっても勿論、背中が痛いとは感じなかった。よくよく手入れされているのだろう。それほど新しい旅館ではなさそうなのに(ただし高級な感じはするが手配をしてくれたのは母であり実際のところ私には分からない)、古い家にありがちな畳のささくれはない。部屋の隅に置かれたランプが醸し出す淡い照明も温かみを演出し、何よりこの部屋に入った時に感じた主張しすぎない「い草」の香りが、仄かに鼻孔をくすぐり、心を落ち着けているのだろう。い草を嫌いという人もいるけれど、私はい草の香りが好きだった。
そしてここには他の誰もいない。
スバルとティアナは今頃温泉を堪能しているだろうし、先ほど女中さんが食事の時間を聞きに来た以外は、誰もいない。この部屋で私は一人だった。ただそれを嘆くわけではない。私は幼い頃一人でいることが多く、その影響もあるのか、見知らぬ大勢の中にいるよりは一人の方がずっと好きだった。大好きな人達といるのもいいけど、一人でいるというのもまた自分を落ち着かせてくれるのだ。
一方で、想いを馳せるは愛しい娘。ヴィヴィオ。
自分は一人でいる方が落ち着くといった。しかしヴィヴィオだけは別だ。一日離れていただけで、苦しいくらいに胸が締め付けられる。先ほどからもう何度もごろごろと畳の上を転がっていた。
仕事の都合上、機動六課が解散し、元の場所に戻れば否応なしに会えない日が来るだろう。それも一日二日ではない。一週間かもしれない。だからその演習も兼ねていたのだけれど、一日目の夜からへたれそうだった。自分が情けない。それだけヴィヴィオの事を愛しているという証明になるのかもしれないが、これでは先やっていけない――でも。
「心配、だなあ」
ご飯は食べているだろうか。しっかりしているあの子のことだから、きっときちんとしているのだろう。寮母のアイナさんだっているのだから、心配する方が失礼にあたる。
「ヴィヴィオに会いたい」
だから漏れた言葉が、心配ではないのだと突きつける。
――違うだろう? 君はただ寂しいだけなんだ、と強硬な口ぶりで。
「寂しいよ、ヴィヴィオ」
想いがただ漏れになって、勝手に口からこぼれ出ていく。摘んだ蛇口のホースから、それでも噴き出す独り言。自分を知る、特に自分を慕ってくれているスバルとティアナには見せられないような姿だ、と我ながら自覚できてしまうのがまた悲しい。
十回ほど部屋の端から端まで転がっていると、いい加減に疲れてくる。仕方なく私は体を起こした。もうすぐ食事も運ばれてくる。その時にみっとも無い姿を曝すのも悪いだろう。
そこで部屋の襖(ふすま)が引かれた。放っておけば延々と続く思考を終わらせてくれる存在が、隙間から現れる。ティアナが戻ってきたのだ。
彼女の姿を見た瞬間、どくんと心臓が跳ねた。スバルが隣にいないことに気付きながら、何故かそれを指摘出来ない。……そうだ。私は今初めて、ティアナが髪を下ろしているところを見ているんだ。なんだか落ち着かないのも、心拍数が多いのも、きっとその所為だ。
「初めての温泉はどうだった?」
「はい、やはり普通のお風呂とかに比べると凄く心地が良かったです」
「そう、よかった」
言いながら私は彼女に釘付けになっていた。
湯上りだからだろうか、ティアナの浴衣の裾から覗く足が、私にはやけに扇情的なものに見える。彼女は白く綺麗な肌をしていた。露出でいえばバリアジャケットのときの方が多く肌を出しているというのに、ほんの僅かばかり見える今の方がもっと、より女性らしく感じられる。魅力的な彼女の肌は、思わず触れてしまいたいくらいに、私を惹きつける。
「なのはさん?」
ティアナがこちらに歩いてくる。擦れる浴衣の隙間から、白い足が幾度かのぞいて見える。
綺麗だった。
足もそうだけれど、帯を締めた腰回りが特に胸をときめかせた。それは耳元で時計の針の音を聞くことに似ている。カチコチと秒針が震える度に、心臓にまでその振動が伝わってくるかのように感じられた。秒針が落ちて、上って。また落ちていく。振動が身体全体に浸透していき、外に漏れてしまいそうな錯覚を覚えて、私はたまらずに胸元を押さえる。
「なんだか顔色が……それに具合も、悪いのなら寝ていた方がいいかと」
大丈夫、と本当は言いたかった。だけれども今声を出せば震えてしまいそうだったので、私は代用として首を振った。だがそれが悪かったのか、ティアナは部屋を出ていく前のスバルがそうしたように顔を近づけ、額に手を当てる。彼女の整った顔が、丁度ぼやけない位置にまで接近する。私はこうなって初めて彼女の顔が、それこそ精密な計算を立てて配置されたように、見る者を魅了するほど端整であるということに気づいた。私の周りには綺麗だったり、可愛かったりする人が沢山いるが、ティアナのはそれらを逸脱していた。
「ん、顔が少し熱いかな。本当に大丈夫ですか?」
頬に彼女の手が触れる。
顔が本当に熱い。頬が染まっていくという感覚が自分で分かる。それが更に心臓を揺さぶる。拍動が加速する。
「お願いすること自体が無理なのかもしれませんが……、なのはさん。あまり無理をしないでください」
ティアナは真剣だ。にも関わらず、私はどうして胸をどきどきさせているのだろう。それも女の子相手に。だけどそれ以上は熱に浮かされたみたいに頭がぼんやりとしていて、まともな思考ができない。――だから。
頬に当てられているのがティアナの手の平ではなく唇だということに気づくまで、数秒の時間を要した。彼女がこの部屋の襖を開ける直前まで考えていたことが、何であったのかさえ思い出せないくらいに。
「ごめんなさい」とティアナが言った。
透き通るアイスブルーの瞳が伏せられる。でも私は、彼女の少し緑がかった青が綺麗だとなんとなく思っていた。状況を未だ理解しきれない私は、もちろんそれに返せる言葉などはなく。今頃のように、そういえばスバルはどうしたのだろう、なんて考えている。それよりも今必要なのはこの状況をどうやって抜け出すかなんだけど。
「なのはさんが可愛すぎるから、でもそんなの言い訳です。ごめんなさい」
彼女はたった一言で、纏まりかけた思考の断片を一気に崩してくれる。
おかしい、彼女はこんなに積極的な子だっただろうか。
でももう私にはわからない。今の印象が強すぎて、どんな像も曖昧に歪んでしまった。
「ティアナ」
ティアナ、と。私は口に出したつもりだったけれど、その声は擦れていて、本当に「ティアナ」と伝わっているか分からない。声がうまく出せないのだ。もしかしたらそれはただの呻き声だったかもしれない。
彼女はもう私から離れているけれど、夢でなければあれは確かにティアナの唇で。
それにしてもたかだが頬にキスされたくらいで、どうしてこれ程に感情を乱されなければならないのだろう。そう考えると私の心は次第に正常に戻されていった。――深呼吸をして。付いた掌に、畳の目の感触を感じたりして、私はだんだんと自身を落ちつけていった。“そうしなければならなかった。”
ティアナが深い罪悪に沈み、今にも溺れてしまいそうになっている、ならば引き上げることが先だ、と混乱しつつも私は理解する。
「大丈夫だよ、ティアナ」
彼女の頭に手を置き、濡れたままの髪を撫でる。彼女の朱の髪は冷たくなっていた。
「もちろん嫌じゃないしね。ちょっと驚いちゃったけど、でもあんなのはただの触れ合いだから」
ティアナがただの触れ合いでそうするのかどうかは、置いといて。私はそう思うことにした。伝えたいものがあるなら、彼女からきっと伝えてくれるだろうと。
ティアナが頷く。
「ほら、今はプライベートだし、多少のハプニングはあって然るべきっていうか。そうだ、スバルはどこへ行ったんだろう。さっきから姿を見ないけど」
こんな時にスバルの名前を出すなんてずるいとは思ったけれど、空気を変えるきっかけとさせてもらう。
「ああ、スバルなら」と言いかけ、彼女はそこで言葉を止めた。まだ何か気にかかることがあるのかもしれない。それともスバルの身に何かが起こって?
いや。もしそうなら真っ先に私に言うだろう。
「スバルがどうかしたの?」
「あ、いえ。スバルの名誉にも関わることなので言おうか迷っていたんですが、元々スバルに名誉なんて無いことに今思い当たりまして」
酷いなあ。
「もし言い辛い事なら、無理に言わなくてもいいけど」
「ある意味では言い辛いことかもしれません」
「ある意味では?」と私は言った。「ある意味では」とティアナが繰り返す。
「実は扉を開ける少し前に部屋の前に到着していたんですよ。もちろんあたしとスバル一緒にです。それからスバルが開けようとしたんですが中で音がして、どうしたんだろうって、悪いとは思いましたが、もしかしたらなにかあったのかもしれないしと少し開けてみたんです。そうしたら部屋をごろごろと転がっているなのはさんの姿があって。これは流石に入れないなと思い、そのまま見ていたんです」
「あれを見ていたんだ」
そっか、見られていたんだ。よりによって一番見られたくないと思っていた人達に。つまり情けなく唸っているところや、寂しいよなんて口に出してしまっているところまで。
「それってどちらかといえば私の名誉に関わるんじゃあ」
「ああ、いえ。なのはさんのその姿はとても可愛らしいものでしたから、大丈夫です」
何故なのだろう、このやるせなさは。脱力感にも似た恥ずかしさ。先ほど頬にキスをされた時とは、また別の羞恥が湧き上がってくる。私は早くその話を流したくて、先を促した。
「それで、何がスバルの名誉に関わることなの?」
「はい、そのなのはさんを見ていると突然スバルが無言で踵を返し、そのまま旅館の庭に飛び出して行きました。普段のスバルなら、勢いよく部屋に入りそうなものなのに。私はどうしたんだろうと思って念話を送ったんです。すると『なのはさん可愛いよなのはさん』と精神がひび割れそうなくらい大音量で叫んできました。そして、そんなスバルのことなんてどうでもよくなったあたしが扉を開けた――以上がここにスバルがいない理由です。この寒いのに恐らくまだ庭で頭を冷やしているんでしょうね」
「……よく、わかり……ました」
「はい、分かっていただけてよかったです。別にあたしは、初めからなのはさんと二人きりになりたい、とか思っていたわけではないので。一応これは言っておきたかったのです」
「――と!」
「と?」
「……ところでもうすぐ夕食なんだって。ティアナたちが温泉に入っている時に女中さんが来てね、教えてくれたんだ。でもスバル帰ってこないと食べられないよ」
首から上が熱くなったのを誤魔化そうと、私は丹念に磨かれた木造の机の前に座る。ティアナとの間にそれほどの距離があるわけではないから、顔を見られてしまえばすぐに赤くなっていると分かる。だからティアナが自分の前の席につくと、目のやり場に困った。
恥ずかしい、と私はつい、視線を下に落としてしまう。だが思い直し、はっと顔を上げれば、彼女は少し傷ついたようにこちらを見ていた。碧が揺らいでいる。眼前に広がる深い海に、私は途方に暮れてしまって、だというのにそこから逃げられない。
「やっぱり、先程の事が気になりますか?」
その水面に小石を投げたのは私なのだと、それが言っている。
「そりゃあ、ちょっとは」
「……じゃあ、気にならないようにさせてあげますよ」
え――、と。言うまでにティアナは立ち上がり、私の背後に回る。音もなく。彼女は静だけを腕に乗せて、胸の方に回す。ふにゅっと彼女の腕が胸に食い込んだ。しかし性的な快感などはない。むしろ痛いくらいで、私は軽く身じろぎをした。
「ティアナ。あの、ちょっと苦しいよ」
訴えると少しだけ抱き締める力を緩めてくれた。強い腕の力は聞く耳など持たないように思えたのは気のせいなのだろう。
「いきなりどうしたの?」
「舌の根も乾かないうちに、ってこういうことを言うんですよね、きっと」
「そういうことじゃなくて」
「さっき夢を見たせいかな」
「ねえ、ティアナ。何を言っているのか解らないよ」
「夢は時として、現実に起こった事よりもその人を揺さぶる。なのはさんはこういう経験ありませんか」
ティアナはそう言って、首筋に唇を当てた。訪れる瞬間的な痛みに顔をしかめるが、直後に彼女の息が触れ、ぞくぞくと背筋を何かが駆け上がる。彼女はわざと音を立てて、そこを吸い上げている。時に唾液を含ませたりもして、ティアナは重点的にそこだけを責める。ぴちゃと舌が肌を撫でる度、耳に振動が直に叩き込まれているようだ。
――吸血鬼に気をつけてね。
ティアナに首筋を吸われながら、私は何と無くフェイトちゃんの言葉を思い出していた。
吸血鬼。
それからフェイトちゃんは、なんと言った?
その時なのはは恐らく――。
恐らく、の後に続く言葉が、今なら予想できる。多分それは正しいのだと識っている。体の奥が熱くなればなるほど、熱を持てば持つほどに、明確な形となって現れる。
――その時なのはは恐らく、抵抗しないんだろうね。
ああそうだ。
その通りだよ、フェイトちゃん。抵抗なんて出来ない。それも、ティアナが傷つくことを恐れてじゃなく、もっと続けてほしいと望んでいるから。
気づけば痛いくらいの締め付けはなくなっていた。逃げることはないと思ったのか、逃げてもいいと思ったのか。私が振り向こうとして首だけを捻ると、待ち構えていたように彼女の舌先が耳朶を舐めた。多分ティアナは私が首を捻ることが分かっていた。恐らく彼女が抱き締めた時に、そう定められていたのだ。
その時、「ただいま」と勢いよく襖が開けられた。スバルだった。彼女は両腕を浴衣の上から手でさすりながら、寒そうに部屋へと入ってくる。
「なのはさん上がりましたよ。でも少し庭の方を散歩していたら良い具合に体が冷えてしまったので、これか温泉行きませんか? あ、もしかして食事かな。それじゃあ食事が終った後に――」
スバルはそこでようやく気付いたようだ。何故ならティアナはいまだに私の耳朶を唇で挟んだままだし、私の体はティアナに抱き締められたままだったのだ。
しばらくしてスバルは、「ティアの裏切り者ー!」と叫び、再び廊下を駆け抜けていった。思考が定まらないうちに、女中さんがスバルと擦れ違いうよう、スバルが跳ねのけた襖に手をかけ、何気ない顔を装い「お食事の用意ができましたので、これからお運びいたします」と言った。女中さんは私たちの戯れなど目に入っていないかのように、用件だけを告げて去っていく。
――とりあえず。
分かることは、この数十秒の間に起こった目まぐるしい事は、私が何一つとして理解することなく、既に過ぎ去ってしまっているのだということだけだった。
ふう、とティアナが吐いた溜め息が首筋にかかっても感覚は鈍く、やけに現実から遠いものに感じられる。それから彼女は立ち上がった。
「ちょっとスバルを捕まえてきますね」
ティアナがそう言って部屋を出て、開けられたままの襖が丁寧に閉じられると、私は部屋に一人残される。
彼女たちが温泉に向かい、そして戻ってくるまでに色々な事が起こった。その色々な事をどうにか追っていくうちに、私は更に分からなくなっていく。そしてついに私は考えることを止めた。起こったことについて考えることに意味はなかったとようやく気付いて。だから今私が出来ることといえば、ティアナがここに戻って来る前にそうしていたように再び畳の上に寝転がることくらいだった。
ティアナが部屋を出て行いき、後頭部や背や尻に畳の感触を感じ、掌でそっと畳の目をなぞってみると、不思議と落ち着いた。静かに背中が沈んでいく。部屋を出る時に見たヴィヴィオの寝顔、それから親友の言葉。
「ごめんねフェイトちゃん、せっかく忠告してくれたのに」
背中の畳が崩れ堕ちていくような感覚に襲われる。ずっと、小石を落としても音が聞こえないくらい深い井戸の底に落とされていく。自分の体は抵抗なく、それを受け入れている。
血を吸われ、互いの体液を交えた吸血鬼。彼女に心を奪われてしまった私。
瞼の裏で、遠くにいる親友が苦笑しながら「ひどいよ、なのは」、と言った気がした。
それから間もなくティアナと、ティアナに連れられたスバルは戻ってきた。三人で御飯を食べ、その後はスバルの希望通り、一緒に温泉に浸かることにした。もちろんそこでは特別変った事は起こらない。背中を流し合ったり、たまにスバルの鼻血をティアナがどこから用意したのか水鉄砲で顔面を狙い撃ちたりと、その程度のものだ。
翌日は温泉の周りを散策することになった。初日は分からなかった山の風景や、渓谷に下りて水の綺麗さに驚かされたりもした。落ちてくる川が小滝みたいに見えた。スバルはやっぱりはしゃいでいたし、ティアナも呆れつつ楽しんでいるようだった。
私はその後ろを歩いていた。ときたま彼女たちは振り返って、こんなものがありました、とか、あちらの方にすごく綺麗な川があるんです、とか報告してくれる。それはミッドチルダにいた時の儀礼的なものではない。彼女たちが楽しんで伝えてくれているのが自分にも分かる。
こんな気分は久しぶりだ。確かに傾斜の激しい場所を上り下りしたり、長い間歩いているというのは自分にとってそれほど楽ではなかったけれど、スバルとティアナの弾んだ声や笑顔を見ているだけでその価値は十分過ぎるほどだ。
――ティアナはあれから変わりない。
温泉に入る時に何らかの行動を起こしてくるかと思ったけれど、そんな素振りすら見せなかった。あるいはスバルがいるからか。自分はそのことに安心し、どこかで残念に思って……。
と、いけない。気を抜くと、また考え込んでしまっている。ほら、スバルがこっちに寄ってきてしまった。
なのはさん、と。純真な瞳で見詰めてくるものだから、私はつい頭を撫でてしまう。幼子をあやすように撫でてやる。スバルの髪は短いけれど、掌に心地よかった。それに短いといっても、毛先が幾本かは肩には掛かっている。
「スバルの髪は、気持ちいいなあ」
私はスバルの髪を撫でるのについ夢中になっていて、例えば掌の下にいる子が真っ赤な顔をしていたって、可愛いな、くらいにしか思わなかった。ヴィータちゃんやヴィヴィオといい、私はつくづく人の頭を撫でるのが好きなのかもしれない。最近はしなくなったけれど、小さな頃はフェイトちゃんの頭を日常的にといってもいい程頻繁に撫でていて、困らせていたんだったか。本気で嫌がっていないことが分かれば、私は安心して撫でることができた。
スバルの髪は手櫛がよく通る。そんな風には見えなかったけれど、やはりスバルも女の子だから手入れがなされているのだろう。訓練を見ていたら分からないし、普段の豪快で快活な姿からは考えもしていなかったけれど、スバルだって女の子なのだ。そしてティアナも。私が今まで考えようとしなかっただけで、彼女たちは時に凄く女の子の顔をしている。今この時だってそう。
だからこれはなんとなくなのだ。“なんとなく”私はスバルの頬にキスをした。昨晩ティアナにされたことをそのままなぞるように左頬に手を添え、唇で頬に触れた。
影を作っていた雲が風に流されていく。千切れた雲が頭上を通り過ぎて行った。だけれどもその上にはまた、もっと分厚い雲が控えている。私は空の上で過ぎていくことと同じくらい他人事のように、自分のしていることを感じている。スバルの頬に口付けたことを、一歩下がった場所から視ていた。だからおそらく、私よりもティアナの方がずっと近い位置で自分とスバルとの触れ合いを視ていたのだ。もちろん、その時には気付けなかったけれど。
先を歩いていたはずのティアナに見られているということを知ったのは、ぐいと彼女に腕を引かれたからだった。ティアナは無言でスバルから私を引き剥がす。眉間に幾重ものしわを寄せて――あるいはそれは元々そこにあったものかもしれないけれど――私を睨んでいた。でも私はティアナに睨まれているとは思わなかった。表情は確かに「睨み」だったが、彼女は本当は、私を睨んでなんていなかった。涙を流さないだけで、ティアナは泣いていたのだ。私にはそれが分かってしまった。
「ごめん」
「誰に謝っているんですか?」
「分からない、だからティアナがそれを教えて」
酷い言葉だ。
ティアナは頭上を過ぎて行く雲を見上げた。散り散りになっていく雲は薄く広がっていく。そのうちに消えてしまいそうな鈍色の雲。その雲がそうするように私もスバルから離れる。ただしティアナの手は、私の手を掴んだままで。
「じゃあ、スバルに。あたしは貴女の恋人ではなくただの教え子で部下なんですから、あたしに謝る必要なんてどこにもないんです」
「そうだよね。スバル、勝手にキスしてごめん」
「あ、いえ。私は別に。ほっぺたなんて、その、挨拶ですし」
スバルは私とティアナの間に流れる微妙な空気に、気付いているようだった。気付いていながら、その原因が分かっていないようだった。それはそうだ。私自身、それほど理解しているわけじゃない。感覚で分かっているだけだ。
――瞳に潜むそれは炎。鈍い、鈍いと常から言われている私でもはっきりと見えるくらいに濃い嫉妬の色をしたソレ。ティアナの髪よりもずっと深い赤をした視線が炎となり、内側から肉を焼く。血液が沸騰し、脳が訴えてくる。今すぐティアナの視線から逃げなければならないと叫んでいる。自分自身の出す警告である。
彼女の手を振り払うのは簡単だ。それほど強い力で握られているわけではないのだから。だけど私の足も手も、何もかもが動かない。
「どうして逃げないんですか?」
「逃げる必要がないからだよ」
私がそう言うと、ティアナは私の腕を解放する。何かを諦めたように、ふいと背を向けた。
「とつぜん腕なんて握ってしまって、すみませんでした」
儀礼的な挨拶だけをそこに残し、ティアナは前に進んだ。たぶん“前”に。でもティアナが進んだのが例えば“後ろ”だとしても、何も問題はなかった。どちらでもいい。私から離れればいいのだと。
そんなティアナのあとを、スバルが慌てて追っていく。私は彼女たちの背中をただ眺める。立ち尽くしたまま肺を息で満たし、それから慎重に、ゆっくりと吐き出す。けれど何も残らなかった。白い息も、腕を掴む手もない。空白と私だけが取り残されている。顔を上げたところで、そこには今にも落ちてきそうな雲だけしかなかった。
きっとあともう少し空が青ければよかった何かが違っていたのかもしれないな、と陳腐な捨て台詞を残してみたけれど、結局のところ何一つとして変わることはなく、頭上の雲がまた入れ替わっただけだった。
⇒4.彼女と喩えられた人
2.雷の忠告の続きです。
スバルは、カゲで頑張ってる。でも実はそれはカゲではなく、ガケかもしれない。
と謎な言葉を吐きつつ。
よろしければ、続きよりどぞ。
星たちの休日
3.星宿から逸れた射手
深呼吸をする。その拍子につい声が漏れてしまう。その声はどちらかというとうめき声に近い。そんなうめき声をあげるのは一人しかいなかった。
それは自分。全力全開とヴィヴィオが大好き、高町なのは。
と、こうして自分の事を客観的に見ると、いかに自分が恥ずかしい声をあげてしまったのかということが分かる。
スバルとティアナがいなくてよかった。もしくは二人がいるときにもそんな声を出してしまっていたかもしれないが、そこはおそらく気力で何とかしているはずだ。私は我慢強いから。『ゆりかご』内部で仲間が負傷している映像を見せられても、唇を噛み締めることで――それも一人になってから――耐えた。
だけど何だろう、この気持ち悪さ。いっそ胃を取り出して地面に叩きつけてしまいたい衝動に駆られる。だが勿論そんなことは出来やしない。
手にしたペットボトルを傾け、一口だけお茶を含む。すぐには飲み込まない。口腔に滲ませながら、少しずつ嚥下していく。それでようやく、心なし楽になった気がする。――これはお茶に含まれるティアナの優しさだ。
とある製薬会社が、ある薬の謳い文句で「これの半分は優しさでできている」というのがあった。テレビで聞いたときには、『成分の誤表』だと思ったものだ。実際薬の中に優しさなんてものが入っているはずはない。そこには薬剤師がその頭に記憶した通りに調合した粉末しか含まれていない。自分が手にしているお茶にもし「半分が優しさでできている」なんて表記がしてあれば、怪訝な顔で目を逸らしたあと、今まで何を見ていたかすら記憶に残らないくらいどうでもよいことになり下がっている。だが、それでもこのお茶には確かに「優しさ」が入っている。売られているお茶とこのお茶とでは、私にとって全くの別物であるのだ。
お茶を半分ほど飲んだら、気分も落ち着いてきた。私は畳の上に寝転がる。壁に山の描かれた無彩色の掛け軸があった。開け放たれた障子を挟んだ向こうには炬燵もある。
この純和室な部屋を選んでくれたのは、母だった。洋菓子店を営んでいる母だから、話を聞いた時には驚いたものだ。しかし決して不快というわけではない。居心地が悪いとも思わない。それどころか、日本の心というものを特に持ち合わせていない自分でも、何か落ち着く空間だった。恐らく自分にはわからない、人間の心理を計算し尽くされた設計と構築がなされているのかもしれない。
――ヴィータちゃんも来られれば良かったのに。
考えながら、ごろりと横になる。畳の上に寝転がっても勿論、背中が痛いとは感じなかった。よくよく手入れされているのだろう。それほど新しい旅館ではなさそうなのに(ただし高級な感じはするが手配をしてくれたのは母であり実際のところ私には分からない)、古い家にありがちな畳のささくれはない。部屋の隅に置かれたランプが醸し出す淡い照明も温かみを演出し、何よりこの部屋に入った時に感じた主張しすぎない「い草」の香りが、仄かに鼻孔をくすぐり、心を落ち着けているのだろう。い草を嫌いという人もいるけれど、私はい草の香りが好きだった。
そしてここには他の誰もいない。
スバルとティアナは今頃温泉を堪能しているだろうし、先ほど女中さんが食事の時間を聞きに来た以外は、誰もいない。この部屋で私は一人だった。ただそれを嘆くわけではない。私は幼い頃一人でいることが多く、その影響もあるのか、見知らぬ大勢の中にいるよりは一人の方がずっと好きだった。大好きな人達といるのもいいけど、一人でいるというのもまた自分を落ち着かせてくれるのだ。
一方で、想いを馳せるは愛しい娘。ヴィヴィオ。
自分は一人でいる方が落ち着くといった。しかしヴィヴィオだけは別だ。一日離れていただけで、苦しいくらいに胸が締め付けられる。先ほどからもう何度もごろごろと畳の上を転がっていた。
仕事の都合上、機動六課が解散し、元の場所に戻れば否応なしに会えない日が来るだろう。それも一日二日ではない。一週間かもしれない。だからその演習も兼ねていたのだけれど、一日目の夜からへたれそうだった。自分が情けない。それだけヴィヴィオの事を愛しているという証明になるのかもしれないが、これでは先やっていけない――でも。
「心配、だなあ」
ご飯は食べているだろうか。しっかりしているあの子のことだから、きっときちんとしているのだろう。寮母のアイナさんだっているのだから、心配する方が失礼にあたる。
「ヴィヴィオに会いたい」
だから漏れた言葉が、心配ではないのだと突きつける。
――違うだろう? 君はただ寂しいだけなんだ、と強硬な口ぶりで。
「寂しいよ、ヴィヴィオ」
想いがただ漏れになって、勝手に口からこぼれ出ていく。摘んだ蛇口のホースから、それでも噴き出す独り言。自分を知る、特に自分を慕ってくれているスバルとティアナには見せられないような姿だ、と我ながら自覚できてしまうのがまた悲しい。
十回ほど部屋の端から端まで転がっていると、いい加減に疲れてくる。仕方なく私は体を起こした。もうすぐ食事も運ばれてくる。その時にみっとも無い姿を曝すのも悪いだろう。
そこで部屋の襖(ふすま)が引かれた。放っておけば延々と続く思考を終わらせてくれる存在が、隙間から現れる。ティアナが戻ってきたのだ。
彼女の姿を見た瞬間、どくんと心臓が跳ねた。スバルが隣にいないことに気付きながら、何故かそれを指摘出来ない。……そうだ。私は今初めて、ティアナが髪を下ろしているところを見ているんだ。なんだか落ち着かないのも、心拍数が多いのも、きっとその所為だ。
「初めての温泉はどうだった?」
「はい、やはり普通のお風呂とかに比べると凄く心地が良かったです」
「そう、よかった」
言いながら私は彼女に釘付けになっていた。
湯上りだからだろうか、ティアナの浴衣の裾から覗く足が、私にはやけに扇情的なものに見える。彼女は白く綺麗な肌をしていた。露出でいえばバリアジャケットのときの方が多く肌を出しているというのに、ほんの僅かばかり見える今の方がもっと、より女性らしく感じられる。魅力的な彼女の肌は、思わず触れてしまいたいくらいに、私を惹きつける。
「なのはさん?」
ティアナがこちらに歩いてくる。擦れる浴衣の隙間から、白い足が幾度かのぞいて見える。
綺麗だった。
足もそうだけれど、帯を締めた腰回りが特に胸をときめかせた。それは耳元で時計の針の音を聞くことに似ている。カチコチと秒針が震える度に、心臓にまでその振動が伝わってくるかのように感じられた。秒針が落ちて、上って。また落ちていく。振動が身体全体に浸透していき、外に漏れてしまいそうな錯覚を覚えて、私はたまらずに胸元を押さえる。
「なんだか顔色が……それに具合も、悪いのなら寝ていた方がいいかと」
大丈夫、と本当は言いたかった。だけれども今声を出せば震えてしまいそうだったので、私は代用として首を振った。だがそれが悪かったのか、ティアナは部屋を出ていく前のスバルがそうしたように顔を近づけ、額に手を当てる。彼女の整った顔が、丁度ぼやけない位置にまで接近する。私はこうなって初めて彼女の顔が、それこそ精密な計算を立てて配置されたように、見る者を魅了するほど端整であるということに気づいた。私の周りには綺麗だったり、可愛かったりする人が沢山いるが、ティアナのはそれらを逸脱していた。
「ん、顔が少し熱いかな。本当に大丈夫ですか?」
頬に彼女の手が触れる。
顔が本当に熱い。頬が染まっていくという感覚が自分で分かる。それが更に心臓を揺さぶる。拍動が加速する。
「お願いすること自体が無理なのかもしれませんが……、なのはさん。あまり無理をしないでください」
ティアナは真剣だ。にも関わらず、私はどうして胸をどきどきさせているのだろう。それも女の子相手に。だけどそれ以上は熱に浮かされたみたいに頭がぼんやりとしていて、まともな思考ができない。――だから。
頬に当てられているのがティアナの手の平ではなく唇だということに気づくまで、数秒の時間を要した。彼女がこの部屋の襖を開ける直前まで考えていたことが、何であったのかさえ思い出せないくらいに。
「ごめんなさい」とティアナが言った。
透き通るアイスブルーの瞳が伏せられる。でも私は、彼女の少し緑がかった青が綺麗だとなんとなく思っていた。状況を未だ理解しきれない私は、もちろんそれに返せる言葉などはなく。今頃のように、そういえばスバルはどうしたのだろう、なんて考えている。それよりも今必要なのはこの状況をどうやって抜け出すかなんだけど。
「なのはさんが可愛すぎるから、でもそんなの言い訳です。ごめんなさい」
彼女はたった一言で、纏まりかけた思考の断片を一気に崩してくれる。
おかしい、彼女はこんなに積極的な子だっただろうか。
でももう私にはわからない。今の印象が強すぎて、どんな像も曖昧に歪んでしまった。
「ティアナ」
ティアナ、と。私は口に出したつもりだったけれど、その声は擦れていて、本当に「ティアナ」と伝わっているか分からない。声がうまく出せないのだ。もしかしたらそれはただの呻き声だったかもしれない。
彼女はもう私から離れているけれど、夢でなければあれは確かにティアナの唇で。
それにしてもたかだが頬にキスされたくらいで、どうしてこれ程に感情を乱されなければならないのだろう。そう考えると私の心は次第に正常に戻されていった。――深呼吸をして。付いた掌に、畳の目の感触を感じたりして、私はだんだんと自身を落ちつけていった。“そうしなければならなかった。”
ティアナが深い罪悪に沈み、今にも溺れてしまいそうになっている、ならば引き上げることが先だ、と混乱しつつも私は理解する。
「大丈夫だよ、ティアナ」
彼女の頭に手を置き、濡れたままの髪を撫でる。彼女の朱の髪は冷たくなっていた。
「もちろん嫌じゃないしね。ちょっと驚いちゃったけど、でもあんなのはただの触れ合いだから」
ティアナがただの触れ合いでそうするのかどうかは、置いといて。私はそう思うことにした。伝えたいものがあるなら、彼女からきっと伝えてくれるだろうと。
ティアナが頷く。
「ほら、今はプライベートだし、多少のハプニングはあって然るべきっていうか。そうだ、スバルはどこへ行ったんだろう。さっきから姿を見ないけど」
こんな時にスバルの名前を出すなんてずるいとは思ったけれど、空気を変えるきっかけとさせてもらう。
「ああ、スバルなら」と言いかけ、彼女はそこで言葉を止めた。まだ何か気にかかることがあるのかもしれない。それともスバルの身に何かが起こって?
いや。もしそうなら真っ先に私に言うだろう。
「スバルがどうかしたの?」
「あ、いえ。スバルの名誉にも関わることなので言おうか迷っていたんですが、元々スバルに名誉なんて無いことに今思い当たりまして」
酷いなあ。
「もし言い辛い事なら、無理に言わなくてもいいけど」
「ある意味では言い辛いことかもしれません」
「ある意味では?」と私は言った。「ある意味では」とティアナが繰り返す。
「実は扉を開ける少し前に部屋の前に到着していたんですよ。もちろんあたしとスバル一緒にです。それからスバルが開けようとしたんですが中で音がして、どうしたんだろうって、悪いとは思いましたが、もしかしたらなにかあったのかもしれないしと少し開けてみたんです。そうしたら部屋をごろごろと転がっているなのはさんの姿があって。これは流石に入れないなと思い、そのまま見ていたんです」
「あれを見ていたんだ」
そっか、見られていたんだ。よりによって一番見られたくないと思っていた人達に。つまり情けなく唸っているところや、寂しいよなんて口に出してしまっているところまで。
「それってどちらかといえば私の名誉に関わるんじゃあ」
「ああ、いえ。なのはさんのその姿はとても可愛らしいものでしたから、大丈夫です」
何故なのだろう、このやるせなさは。脱力感にも似た恥ずかしさ。先ほど頬にキスをされた時とは、また別の羞恥が湧き上がってくる。私は早くその話を流したくて、先を促した。
「それで、何がスバルの名誉に関わることなの?」
「はい、そのなのはさんを見ていると突然スバルが無言で踵を返し、そのまま旅館の庭に飛び出して行きました。普段のスバルなら、勢いよく部屋に入りそうなものなのに。私はどうしたんだろうと思って念話を送ったんです。すると『なのはさん可愛いよなのはさん』と精神がひび割れそうなくらい大音量で叫んできました。そして、そんなスバルのことなんてどうでもよくなったあたしが扉を開けた――以上がここにスバルがいない理由です。この寒いのに恐らくまだ庭で頭を冷やしているんでしょうね」
「……よく、わかり……ました」
「はい、分かっていただけてよかったです。別にあたしは、初めからなのはさんと二人きりになりたい、とか思っていたわけではないので。一応これは言っておきたかったのです」
「――と!」
「と?」
「……ところでもうすぐ夕食なんだって。ティアナたちが温泉に入っている時に女中さんが来てね、教えてくれたんだ。でもスバル帰ってこないと食べられないよ」
首から上が熱くなったのを誤魔化そうと、私は丹念に磨かれた木造の机の前に座る。ティアナとの間にそれほどの距離があるわけではないから、顔を見られてしまえばすぐに赤くなっていると分かる。だからティアナが自分の前の席につくと、目のやり場に困った。
恥ずかしい、と私はつい、視線を下に落としてしまう。だが思い直し、はっと顔を上げれば、彼女は少し傷ついたようにこちらを見ていた。碧が揺らいでいる。眼前に広がる深い海に、私は途方に暮れてしまって、だというのにそこから逃げられない。
「やっぱり、先程の事が気になりますか?」
その水面に小石を投げたのは私なのだと、それが言っている。
「そりゃあ、ちょっとは」
「……じゃあ、気にならないようにさせてあげますよ」
え――、と。言うまでにティアナは立ち上がり、私の背後に回る。音もなく。彼女は静だけを腕に乗せて、胸の方に回す。ふにゅっと彼女の腕が胸に食い込んだ。しかし性的な快感などはない。むしろ痛いくらいで、私は軽く身じろぎをした。
「ティアナ。あの、ちょっと苦しいよ」
訴えると少しだけ抱き締める力を緩めてくれた。強い腕の力は聞く耳など持たないように思えたのは気のせいなのだろう。
「いきなりどうしたの?」
「舌の根も乾かないうちに、ってこういうことを言うんですよね、きっと」
「そういうことじゃなくて」
「さっき夢を見たせいかな」
「ねえ、ティアナ。何を言っているのか解らないよ」
「夢は時として、現実に起こった事よりもその人を揺さぶる。なのはさんはこういう経験ありませんか」
ティアナはそう言って、首筋に唇を当てた。訪れる瞬間的な痛みに顔をしかめるが、直後に彼女の息が触れ、ぞくぞくと背筋を何かが駆け上がる。彼女はわざと音を立てて、そこを吸い上げている。時に唾液を含ませたりもして、ティアナは重点的にそこだけを責める。ぴちゃと舌が肌を撫でる度、耳に振動が直に叩き込まれているようだ。
――吸血鬼に気をつけてね。
ティアナに首筋を吸われながら、私は何と無くフェイトちゃんの言葉を思い出していた。
吸血鬼。
それからフェイトちゃんは、なんと言った?
その時なのはは恐らく――。
恐らく、の後に続く言葉が、今なら予想できる。多分それは正しいのだと識っている。体の奥が熱くなればなるほど、熱を持てば持つほどに、明確な形となって現れる。
――その時なのはは恐らく、抵抗しないんだろうね。
ああそうだ。
その通りだよ、フェイトちゃん。抵抗なんて出来ない。それも、ティアナが傷つくことを恐れてじゃなく、もっと続けてほしいと望んでいるから。
気づけば痛いくらいの締め付けはなくなっていた。逃げることはないと思ったのか、逃げてもいいと思ったのか。私が振り向こうとして首だけを捻ると、待ち構えていたように彼女の舌先が耳朶を舐めた。多分ティアナは私が首を捻ることが分かっていた。恐らく彼女が抱き締めた時に、そう定められていたのだ。
その時、「ただいま」と勢いよく襖が開けられた。スバルだった。彼女は両腕を浴衣の上から手でさすりながら、寒そうに部屋へと入ってくる。
「なのはさん上がりましたよ。でも少し庭の方を散歩していたら良い具合に体が冷えてしまったので、これか温泉行きませんか? あ、もしかして食事かな。それじゃあ食事が終った後に――」
スバルはそこでようやく気付いたようだ。何故ならティアナはいまだに私の耳朶を唇で挟んだままだし、私の体はティアナに抱き締められたままだったのだ。
しばらくしてスバルは、「ティアの裏切り者ー!」と叫び、再び廊下を駆け抜けていった。思考が定まらないうちに、女中さんがスバルと擦れ違いうよう、スバルが跳ねのけた襖に手をかけ、何気ない顔を装い「お食事の用意ができましたので、これからお運びいたします」と言った。女中さんは私たちの戯れなど目に入っていないかのように、用件だけを告げて去っていく。
――とりあえず。
分かることは、この数十秒の間に起こった目まぐるしい事は、私が何一つとして理解することなく、既に過ぎ去ってしまっているのだということだけだった。
ふう、とティアナが吐いた溜め息が首筋にかかっても感覚は鈍く、やけに現実から遠いものに感じられる。それから彼女は立ち上がった。
「ちょっとスバルを捕まえてきますね」
ティアナがそう言って部屋を出て、開けられたままの襖が丁寧に閉じられると、私は部屋に一人残される。
彼女たちが温泉に向かい、そして戻ってくるまでに色々な事が起こった。その色々な事をどうにか追っていくうちに、私は更に分からなくなっていく。そしてついに私は考えることを止めた。起こったことについて考えることに意味はなかったとようやく気付いて。だから今私が出来ることといえば、ティアナがここに戻って来る前にそうしていたように再び畳の上に寝転がることくらいだった。
ティアナが部屋を出て行いき、後頭部や背や尻に畳の感触を感じ、掌でそっと畳の目をなぞってみると、不思議と落ち着いた。静かに背中が沈んでいく。部屋を出る時に見たヴィヴィオの寝顔、それから親友の言葉。
「ごめんねフェイトちゃん、せっかく忠告してくれたのに」
背中の畳が崩れ堕ちていくような感覚に襲われる。ずっと、小石を落としても音が聞こえないくらい深い井戸の底に落とされていく。自分の体は抵抗なく、それを受け入れている。
血を吸われ、互いの体液を交えた吸血鬼。彼女に心を奪われてしまった私。
瞼の裏で、遠くにいる親友が苦笑しながら「ひどいよ、なのは」、と言った気がした。
それから間もなくティアナと、ティアナに連れられたスバルは戻ってきた。三人で御飯を食べ、その後はスバルの希望通り、一緒に温泉に浸かることにした。もちろんそこでは特別変った事は起こらない。背中を流し合ったり、たまにスバルの鼻血をティアナがどこから用意したのか水鉄砲で顔面を狙い撃ちたりと、その程度のものだ。
翌日は温泉の周りを散策することになった。初日は分からなかった山の風景や、渓谷に下りて水の綺麗さに驚かされたりもした。落ちてくる川が小滝みたいに見えた。スバルはやっぱりはしゃいでいたし、ティアナも呆れつつ楽しんでいるようだった。
私はその後ろを歩いていた。ときたま彼女たちは振り返って、こんなものがありました、とか、あちらの方にすごく綺麗な川があるんです、とか報告してくれる。それはミッドチルダにいた時の儀礼的なものではない。彼女たちが楽しんで伝えてくれているのが自分にも分かる。
こんな気分は久しぶりだ。確かに傾斜の激しい場所を上り下りしたり、長い間歩いているというのは自分にとってそれほど楽ではなかったけれど、スバルとティアナの弾んだ声や笑顔を見ているだけでその価値は十分過ぎるほどだ。
――ティアナはあれから変わりない。
温泉に入る時に何らかの行動を起こしてくるかと思ったけれど、そんな素振りすら見せなかった。あるいはスバルがいるからか。自分はそのことに安心し、どこかで残念に思って……。
と、いけない。気を抜くと、また考え込んでしまっている。ほら、スバルがこっちに寄ってきてしまった。
なのはさん、と。純真な瞳で見詰めてくるものだから、私はつい頭を撫でてしまう。幼子をあやすように撫でてやる。スバルの髪は短いけれど、掌に心地よかった。それに短いといっても、毛先が幾本かは肩には掛かっている。
「スバルの髪は、気持ちいいなあ」
私はスバルの髪を撫でるのについ夢中になっていて、例えば掌の下にいる子が真っ赤な顔をしていたって、可愛いな、くらいにしか思わなかった。ヴィータちゃんやヴィヴィオといい、私はつくづく人の頭を撫でるのが好きなのかもしれない。最近はしなくなったけれど、小さな頃はフェイトちゃんの頭を日常的にといってもいい程頻繁に撫でていて、困らせていたんだったか。本気で嫌がっていないことが分かれば、私は安心して撫でることができた。
スバルの髪は手櫛がよく通る。そんな風には見えなかったけれど、やはりスバルも女の子だから手入れがなされているのだろう。訓練を見ていたら分からないし、普段の豪快で快活な姿からは考えもしていなかったけれど、スバルだって女の子なのだ。そしてティアナも。私が今まで考えようとしなかっただけで、彼女たちは時に凄く女の子の顔をしている。今この時だってそう。
だからこれはなんとなくなのだ。“なんとなく”私はスバルの頬にキスをした。昨晩ティアナにされたことをそのままなぞるように左頬に手を添え、唇で頬に触れた。
影を作っていた雲が風に流されていく。千切れた雲が頭上を通り過ぎて行った。だけれどもその上にはまた、もっと分厚い雲が控えている。私は空の上で過ぎていくことと同じくらい他人事のように、自分のしていることを感じている。スバルの頬に口付けたことを、一歩下がった場所から視ていた。だからおそらく、私よりもティアナの方がずっと近い位置で自分とスバルとの触れ合いを視ていたのだ。もちろん、その時には気付けなかったけれど。
先を歩いていたはずのティアナに見られているということを知ったのは、ぐいと彼女に腕を引かれたからだった。ティアナは無言でスバルから私を引き剥がす。眉間に幾重ものしわを寄せて――あるいはそれは元々そこにあったものかもしれないけれど――私を睨んでいた。でも私はティアナに睨まれているとは思わなかった。表情は確かに「睨み」だったが、彼女は本当は、私を睨んでなんていなかった。涙を流さないだけで、ティアナは泣いていたのだ。私にはそれが分かってしまった。
「ごめん」
「誰に謝っているんですか?」
「分からない、だからティアナがそれを教えて」
酷い言葉だ。
ティアナは頭上を過ぎて行く雲を見上げた。散り散りになっていく雲は薄く広がっていく。そのうちに消えてしまいそうな鈍色の雲。その雲がそうするように私もスバルから離れる。ただしティアナの手は、私の手を掴んだままで。
「じゃあ、スバルに。あたしは貴女の恋人ではなくただの教え子で部下なんですから、あたしに謝る必要なんてどこにもないんです」
「そうだよね。スバル、勝手にキスしてごめん」
「あ、いえ。私は別に。ほっぺたなんて、その、挨拶ですし」
スバルは私とティアナの間に流れる微妙な空気に、気付いているようだった。気付いていながら、その原因が分かっていないようだった。それはそうだ。私自身、それほど理解しているわけじゃない。感覚で分かっているだけだ。
――瞳に潜むそれは炎。鈍い、鈍いと常から言われている私でもはっきりと見えるくらいに濃い嫉妬の色をしたソレ。ティアナの髪よりもずっと深い赤をした視線が炎となり、内側から肉を焼く。血液が沸騰し、脳が訴えてくる。今すぐティアナの視線から逃げなければならないと叫んでいる。自分自身の出す警告である。
彼女の手を振り払うのは簡単だ。それほど強い力で握られているわけではないのだから。だけど私の足も手も、何もかもが動かない。
「どうして逃げないんですか?」
「逃げる必要がないからだよ」
私がそう言うと、ティアナは私の腕を解放する。何かを諦めたように、ふいと背を向けた。
「とつぜん腕なんて握ってしまって、すみませんでした」
儀礼的な挨拶だけをそこに残し、ティアナは前に進んだ。たぶん“前”に。でもティアナが進んだのが例えば“後ろ”だとしても、何も問題はなかった。どちらでもいい。私から離れればいいのだと。
そんなティアナのあとを、スバルが慌てて追っていく。私は彼女たちの背中をただ眺める。立ち尽くしたまま肺を息で満たし、それから慎重に、ゆっくりと吐き出す。けれど何も残らなかった。白い息も、腕を掴む手もない。空白と私だけが取り残されている。顔を上げたところで、そこには今にも落ちてきそうな雲だけしかなかった。
きっとあともう少し空が青ければよかった何かが違っていたのかもしれないな、と陳腐な捨て台詞を残してみたけれど、結局のところ何一つとして変わることはなく、頭上の雲がまた入れ替わっただけだった。
⇒4.彼女と喩えられた人
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アリサ×なのは

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