2017-08

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別の世界を願うなら―3

第3話「子守唄1」
2.名もなき詩人2の続き。
なのはとティアナの物語。パラレルです。

――ティアナは空っぽだった。
でもそれは“今は”ということ。だからちゃんと過去があるということ。
二人をつなぐもの、聞こえてくる子守唄。
天井に走る一条の月光を眺めながら、なのはは一つティアナを知る。

昔ティアナに詰まっていたものの話。
もしよろしければ続きよりどうぞ。



 別の世界を願うなら

 3.子守唄1


 年も越え、冬も中頃を過ぎた二月の終わり。それでも私たちは変わらない関係を続けている。身体だけの、他の感情など無用だとばかりに除去した、ある意味綺麗な関係はずっと続いている。
 私たちは不定期に逢瀬を交わした。向こうから呼び出してくれることはないが、こちらから呼び出せば必ず来てくれる。普段どんな生活をしているのだろうと少し気にもなったが、問うことは躊躇われた。私たちの関係の下には、そのような不問の戒律が敷かれていた。
 例えば相手のことを深く知ろうとすること。例えば将来を語ること。
 今日は何となく玄関ではなく、家の外でティアナを待っていようと思った。特に意味はない。
 上着だけを羽織って、ティアナが気付いてくれるよう外灯の下に立つ。星はない。月が夜空に穴を開けているみたいに二つあるだけ。青白い光が肩に降り注いできて、それほど暗さを感じない。
 数十分もすると、白い息を吐きながらマフラーを巻いた彼女が暗闇に浮かび上がる。ジャケットのポケットに入れた手を抜く。向こうも気付いたようだ。
「なのはさん」
「たまにはね、いいかなって」
 ふっと彼女は視線を逸らした。
 風邪をひきますよ、と彼女言う。大丈夫、と私は返す。
「なのはさん、そういえばマフラーはしないんですか?」
「マフラーって実は持ってないんだ。上着だけで温かいからいいやってつい思っちゃって」
「首とか寒いですよ」
「そうだけど、耐えられないほどでもないからね」
「……そうですか」
 何の感慨もなくティアナは頷く。私は手を差し伸べる。意図を探りかねているような顔をしている。それでも手を差し出したままでいると、その手をとってくれる。ティアナのほっそりとした綺麗な指が重ねられる。向こうの方が長く外にいたはずなのに、ポケットに入れていた自分のよりも温かい手。
「なのはさんの手、冷たいです」
「ごめん」
 私は手を放さずにそのまま歩いていく。ティアナもそれを振り払うことなくついてくる。
 ちらと横目で見ると、彼女の頬は紅く染まっていた。寒さによるものなのか、それとも手を繋いでいる所為なのかは判断がつかない。ただ白い肌に映えて綺麗だと思った。数秒見惚れていたことに気付くと、私は何故か罰が悪いような感じがして顔を背けた。それを見て、彼女は微笑みを溢した。

 翌日夕方頃、私は久しぶりにスタジオに出かけた。練習時に使わせてもらっている場所だ。既に何人かが来ており、各々に楽器をかき鳴らしていた。私が加わったことで音を合わせてみようということになった。久々だったが特に滞りもせず曲が通った。何曲か終えた後、個人練習に戻ることになった。
 約二時間が経った頃、流石に疲労を感じて休憩をとることにする。パイプ椅子の薄いクッションに腰を下ろすと、肩を叩かれた。ギタリストの男だ。音合わせの時には見なかったが、いつの間に来ていたのだろう。
 話があるんだけど。
 男はそう言って私を廊下に連れ出す。私は水を一口だけ口に含んでから立ち上がり、歩き出した男についていった。高い背の男は腕を組んだまま、冷えた廊下の壁に後頭部をもたせ掛けた。
「愛している」
「はい?」
「まあ冗談だが。って怒らないでくれよ。そして逃げようとしないでくれ。いや、そんないい笑顔でいられても困る」
 注文の多い男だ。
「はあ。それで何かな」
「おい無視か。ああいや、悪かった。やはり慣れないことはするものじゃないか。そうだな、一言で言い切る方がすっきりとして分かりやすいこともあるだろうな」
「えっと、どうしたの?」
 いきなり独り言をはじめた男にあからさまに怪訝な顔を向けてみた。彼はたまにこういうところがあるのだが、いつまでもこんな寒い場所にいたくはない。用件を聞いて、自動販売機で温かいコーヒーでも飲んで帰りたい。
 だが事態は簡単ではなかった。あくまでも彼にとっては、だけど。
 スカウトされたんだ、と普段は冷静な彼が興奮気味に拳を握った。
「表舞台に行ってはみないか。今の廃れた音楽業界に宣戦布告と挑戦をしてやるんだ、……とまあそんな大げさには考えなくていいんだけど」
 彼が硬質そうな黒髪をぐしゃりと乱す。心が落ち着かない様子の男に反し、私は平然としていた。思考することを拒否しようと努めてそうあろうとしていた、と言い換えてもいい。男は続けた。
「お前はしばらくここにきてなかったから言えなかったけど、この前のライブにはその関係者が来ていてな、スカウトされたんだ。もちろん俺達は二つ返事で了承したいのを堪え、待ってもらったさ。俺達だけじゃあ駄目だと思っていたからな。……それはお前だ、高町。お前が入ってくれる前までは、そんなに本気で考えていなかった道だけど、お前が入ってくれて、少しずつ真面目に考えるようになった。本気にさせてくれるんだよ、高町の声は。俺もあいつ達も、みんなお前の声に惚れてしまっているんだ」
 ――暇つぶしが。
 暇つぶしにやっていたことが数多のつぶてとなり、今まさに通ろうとしていた道のど真ん中に積み上げられていく。小石はそのうち壁となって塞ぐ。私は思わず足を止める。隙間の見つからない壁を抜けるすべを思いつかずに――。
「なあ。お前の声が必要なんだよ、高町」
 私は迷うことなくその壁に背を向け、引き返すことを決めていた。

 建物を出ると、狙いすぎたタイミングで携帯電話が震えた。私は瞬間的に電話を手にし、耳に当てる。
「ティアナ」
 画面も見ずに名前を口にした。違うなどとは微塵にも思わなかった。そして実際に相手は今一番声を聞きたかった人だった。知らずのうちに服の胸元を握り締めていた。名前を呼ぶ声が微かに震えてしまったことに、今は気付かないふりをしていたい。
「今、時間空いてますか。もしよければあたしとデートをしてください」
 デートという、ティアナらしからぬ直接的な単語に首を捻る精神的な余裕が、その時の自分にはなく。電話越しだというのに頭を大きく縦に振っていた。
 いきなりどうして、とは思わなかった。ただ嬉しかった。
「貴女を連れて行きたい場所があるんです」とティアナが言う。
「暇だったら、でいいんですけど」
「もちろん。大歓迎だよ、ティアナ」
 何故ならそれが、ティアナから初めてのお誘いだったのだ。例え暇でなくても、無理矢理にでも時間を作っていただろう。返事など元より決まっている。
 私たちはアパートの前で待ち合わせ、誘われるまま彼女の言う目的の場所に向かった。『Lullaby』という古びたビルの三階の看板を見上げるティアナを横目にし、ここが彼女の連れていきたい場所であるのだと知る。ピアノバーだった。

  ◇ ◇ ◇

 私は待ち合わせの場所に立っていた。
 なのはさんを待っている時間の暇に、私は手袋を外し、自らの手の平を眺めた。そこに変わりのない自分の手があることを確認し、凍えて動かなくならないよう、また自らのそれを手袋に収めた。
 ティアナ・ランスターのこの指に、母から僅かでも能力が受け継がれていることを嬉しく思う。兄の死より後の時間を紛らわせてくれたのは、他ならぬこの指だった。
 まだ母が生きている頃、母はよくピアノを弾いていた。定期的にピアノバーに出かけては弾いていた。聴力がずば抜けてよかった母は聞いた音をそのまま鍵盤に移すことができた。母は、厭味さえ感じさせない程に整った顔立ちをしていたから、人気は自然と集まったと聞く。あまり覚えていない母の記憶は、それくらいだった。もちろん当時の私が、母が勤めていたバーの場所を知るはずもなく、私が『Lullaby』に出会ったのは偶然以外の何物でもなかった。
 街の獰猛な視線から隠れるよう、ひっそりと佇む古びたビルの三階にそれはあった。ビルの前を通り過ぎる時、私は子守歌を聞いたような気がして、誘われるように足を踏み入れていた。
 ドアを引くと、いらっしゃい、と気の良さそうな老人が顔をのぞかせた。老人と言っても五十歳くらいのものだ。小さな目と痩せた頬を緩め、彼は初対面の私にさえ気心の知れた友人のような笑みを浮かべた。
 また奥からもそれなりに年を重ねた女性が出てきた。美人とは言えないが人好きのする顔立ちで、初対面だというのに好感を持った。その女性はどこか野に咲く小さな花のような雰囲気を隠し持っていたし、柔和な笑みを浮かべていたことも助けたのだろう。
 あら、と女性が手を口元に持っていく。じっと私の顔を見つめている。何かを確かめるような眼差しを受け、微かに眉を顰めてしまう。
「あなた、もしかしてファミリーネームはランスターというんじゃないかしら」
 聞けば母が生前によくここに来ては、弾いてくれていたのだという。
 私はそれから誘われるままにピアノの前に座し、鍵盤の上に指を乗せた。適当に曲を弾いて見せると、夫婦らしき二人は温かな微笑みと拍手をくれた。人前で引くのは兄以外では初めてだったが、嫌な気分ではない。わたしはその日、初めて触れるピアノであるというのに、やけに指に馴染む感触を覚えていた。

 母を通して『Lullaby』と繋がりを持ったけれど、私がピアノを覚えたきっかけというものがあるのなら、それはやはり兄からだろう。
 兄も母に習ったのか聴いているうち自然に覚えたのか、ピアノが上手だった。管理局に入ってからはあまり弾かなくなってしまったけれど、私が駄々をこねると困ったような顔をしながらも弾いてくれた。過度の訓練により筋肉のついた腕と、少しだけごつくなった兄の、白と黒の上を軽やかに行きかう指を、今でも覚えている。

 はあ、と。私は溜息交じりに白い息を吐き出した。小さな雲が生まれる。陽の沈みが早くなった今の季節ではすでに辺りは暗い。傍に立つ街灯だけが頼りだ。
 会う場所は毎回決まってなのはさんの部屋だった。私が彼女に電話をかけた時にはもう家の近くにまで来ていて、以前彼女がそうしてくれていたように、寒空の中で待つことにした。
 今日はいつも結っている髪を下していた。気付いてくれるだろうか、あの人は。彼女は他人のそう言うところに敏感なようで鈍感なところもあるから、あまり期待してはいけないけれど、こちらが期待していれば彼女は必ず応えてくれるから、期待せずにはいられない。
 ――髪を下したんだね。
 彼女特有の、口元を僅かに歪めた微笑みを浮かべるなのはさんを想像した。分かりやすい笑顔ではないけれど、彼女は自分よりもずっと深い蒼をした瞳を、少しだけ緩めて笑う。私は彼女のそんな表情を段々と好きになっていた。ただ。そういえば私は、あの人が全開の笑みを浮かべたところを見たことがない。何より、彼女が心から笑ったことはあるのだろうか。そして私は、彼女に笑顔をもたらすことが少しはできているのだろうか。
 手袋をはめた両手をダッフルコートに突っ込んで、二又に分かれた道のどちら側から来るだろうと少しだけ浮いた気分で立ってたのに、そんな気持ちは次第に落ち込んでいった。
 なのはさん――。
 名前を心の中で呟くだけで、瞬時に彼女との交わりの光景が脳裏に浮かんだ。瞼を落とせばそこになのはさんがいた。
 いつから自分の中で彼女の存在が大きくなってきたのだろう。父と母が亡くなって、兄がいなくなって。気付けば絡まっていた鎖がほどけなくて。何かどうでもいいと考えるようになった自分の心を無理やりこじ開けるのではなく、静かに傍にいることで身体に纏わり付いた鎖が溶かされるようで。彼女と居ると、いつも心が安らいでいくのを感じていた。
 自分の心に広がっているのはがらんとした平地だ。何もない場所。空虚さえ飲み込んでしまうような場所だった。草一本生えてもいなければ、地面が割れたり荒れたりしているわけでもない。見渡す限り平面で、地図があったとしても、自分の居場所さえ掴めない場所は広く生物らしきものが感じられない。この向こうに海があり川があり、砂漠があり野原があり町がある。そんな言葉を信じるにはその場所は少しだけ広過ぎた。
 ただ月があるだけだ。白く美しい月が。
 それなのになのはさんといると、平地だった自身の心に芽生える何かを感じるのである。
 好き……、なんだろうか。私はなのはさんのことを好きなんだろうか。
 何度考えても自分で出した問いの回答に辿り着けないから、今こうして彼女を待っているのかもしれない。その問いの答えが、これからなのはさんを連れていく場所で分かるとどこかで知っているから。
 右手の道からなのはさんが小走りに駆けてくる。自分よりも年上なのに、少女みたいな彼女の姿は微笑ましい。これから起こることによる緊張感が少し解れたように思う。寒さで赤く染まった頬がなおさらそれを引き立てて、沈みかけた気持ちが引き上げられる。
「お待たせ。ティアナのとっておきの場所に連れて行ってくれるんだよね。さあ、行こう」
 今まで一定の距離を保っていた私となのはさん。あの場所に連れていくことで、その距離を崩してしまうことも分かっていた。だけれども、彼女に自分のことをもっと知ってほしいという気持ちは、この頃どんどん増してきていた。なのはさんから連絡がなかった日などには、だだ無性にピアノを弾きたくなった。しかし防音はされているとはいえ、夜に弾くのは躊躇われた。だからピアノを弾くのはだいたい朝か夕方だった。夕方時は弾いたり弾かなかったりもするが、冷たい朝も暑い朝も毎日弾いた。
 だから夜は食事をし、風呂に入ってしまえばもう何もすることがなくなってしまった。電気を消して目が慣れてきた頃、よく掌を見詰めた。見慣れた自身の指。いつかなのはさんが、「ピアニストの指みたいに凄く綺麗で好きだよ」と言ってくれた指は、変わらずにある。
 こんなことなら、兄のように管理局に入り、兄が成しえなかった執務官への道を目指すべきだっただろうか。そうすれば今みたいに暇な時間を持て余すことなく、無駄なことを考える余裕もなく生きていけたのではないだろうか。
 考えても仕方ないとは分かっていた。実際には私は執務官を目指さなかったし、ただ親兄弟の残してくれた遺産を食いぶちにして生きているだけにすぎない。たまにバーに赴いて小遣いを稼ぐような、そんな生活をしている。
 以前バーのマスターから、定期的にここでピアノを弾いてみないかと言ってくれたこともあった。もちろん他でも弾いていい、その決まった日の時間に来てくれればいいと。だが私は頷かなかった。嫌だったわけではないのに、どうしてか頷けなかった。……やはりどこかで無気力だったのかもしれない、自分は。両親が死んで兄が死んで、私は生に価値を見出せなくなってしまった。かといって、死ぬ気もなかった。生きることと同様に、死ぬことにも意味がなかった。なのはさんと出会うまでしてきた行為の全ては、時間を潰すためだけのものだったのだ。
 なのはさんと私はどこかで似ている。そんな気がしている。
 扉の前で隣を振り向く。彼女は小首を傾げる。分からない、というように。幼子みたいな仕草だった。
 なのはさんが何をしてくれたわけでもない。ただ一緒に居てくれた、自分を捻じ曲げずにありのまま受け入れてくれたこと、理由はそれで充分だったのである。
「いらっしゃい、ティアナちゃん」
 半年振りだというのにもかかわらず、変わらぬ野花のような笑顔で迎えてくれるとママと、相変わらず痩せた頬のマスター。彼は隣にいるなのはさんの存在に目配せをすると、小さな瞳をそっと細め微笑んだ。
「今日はどうする? カウンター席か、それとも」
「ピアノを弾かせて下さい。もし空いているなら」
 もちろん、とマスターは頷いた。
「もちろん空けてあるよ。あそこにはもう、君しか座らないことにしているからね」

  ◇ ◇ ◇

 古めかしいビルだったが、内装は決して汚くはない。むしろ人の落ち着ける空間を知り尽くしているかのように、その場所にいるのは心地よかったし、落ち着いた。先ほどティアナ以外にピアノの前に座る人間はいないといっていたが、それにしては客がゼロではないことにも驚かされる。どこもこんなものなのか、こういった場所に来たことのない自分にはそれが分からない。
 ティアナは店の主人らしき人物に頷くと、そのまま黒塗りがされたピアノの方へ向かった。私はぼうっと彼女の真っ直ぐな背中を見詰めていたのだが、不意に彼女は振り向き、カウンター席を指した。
「出来れば振り向かないでくれると嬉しいです」
 返答に困る。そもそも彼女はどこへ向かおうとしているのだろうか。ピアノの方へ、それは分かる。だけれどもどこか現実離れしたことのように思う。それでもティアナがピアノの前に腰を落ち着け、ペダルの確認などしている。私が所在なく立っていると、主人らしき人物の小粒の瞳が微笑んだ。
「注文をどうぞ」
 いつのまにか奥にいた女性が、顔をのぞかせる。
 とりあえず私は席につき、ピアノや奏者を眺めることのできるテーブル席にではなく、ピアノに背を向ける形になってしまうカウンター席に促された。私は適当に目についたスコッチ・ウィスキーを頼んだ。気の良さそうな笑顔を浮かべたまま、主人はカウンターの中に戻る。
 背中からは昔どこかで聞いたような曲が流れていた。滑らかなメロディに、知らず私は耳を傾ける。グラスを年季の入った台に置くと、そのまま瞼を落した。
 振り向かないでほしい、とティアナは言った。それならば私は、振り向けない。だから想像する。あの立派なピアノの前に座るティアナの姿を。黒と白の上で踊る、綺麗な指を。見たことのない光景が、私にははっきりと瞼の裏に描くことができた。
 その曲は心臓を乱暴に握り締めるように、それでいて静謐な音の調べの連続だった。一つ一つの音が、静かに胸をかき乱していく。苦しさに似た哀しみに浸されていくのを感じる。ティアナはどんな気持ちでこれを弾いているのか、それを沈思してまた胸が痛んだ。どうしてこんな哀しい曲を弾くのか、また聞かせてくれるのか……。
 二十分ほどの後、曲の区切りがついたのか、音が止んだ。グラスの中で氷と水のぶつかり合うような冷やかな音だけが取り残された。静寂である。しかしそれもほんの十数秒で、背中からは再び綺麗な旋律が奏でられる。
「さっきのって、何という曲でしょう」
 どうやらクラシックのようだが、私はそれが何と言う曲名かを知らなかった。
 無知な自分を恥じる隙間さえ与えないティアナの音色を、噛み締めながら問う。主人は嫌な顔をすることなく、「チャイコフスキーさ」と言った。
「地球の音楽を彼女はよく好んで弾くんだ。チャイコフスキー『悲愴』第1楽章。そして今弾いているのが……うん。いや、これは後で彼女に聞いてみるといい」
 主人はまた背を向け、カクテルを作り始める。私も追及はせず、ティアナのピアノを聴くことに専念する。
 彼女の奏でるメロディは、先ほどの哀しい旋律を引きずってはいなかった。そこにごくごく自然にあって、かつ主張しすぎない音であるというのに、胸に響くような音色だ。グラスを傾ければ、からんと氷が音を立てて揺らぎ、沈む。音が飲み込まれていく。静かに。
 私は彼女の奏でる音に引き寄せられていることに気づいた。元より音楽を聴くことは嫌いではない。自分が普段耳にしないクラシックだって、決して苦手ではない。だから、というのではなかった。それでも、というか。
「いい演奏だね」
 つまりそういうことなんだと思う。
 主人の言葉に頷き、続けられる演奏に耳を傾けている。スピーカーから流される出来合いの音楽ではない。薄暗いカウンター席、透き通る琥珀色のウイスキーを口に含みつつ、しばしの時を漂う。まさにこれが酔うという感覚なのだろう。音楽に酔い、酒に酔うという贅沢――心地よい空間。寂れた場所にも関わらず人がいる理由が分かった。暇つぶしには、なるほど、ぴったりか。
 ティアナがここに連れてきて、ピアノを聴かせてくれた理由を思い巡らす。この落ち着いた店の中で演奏する彼女の姿を想像しながら、彼女の心の中を想像しようとする。先程の哀しい曲と、今の心の底に染みいるような優しい曲のコントラストが魅せる。ただもし、そこに理由があるとしたら、はたしてそれは何なのか。
 演奏が終わり、ティアナがカウンター席、私の隣に腰掛ける。なんとなく振り返り難く、視線だけを向けてみると、五線譜の上に配置された音符を指でそっとなぞるような、静かな微笑があった。私はなんとなく、これが彼女本来の微笑みなのだ、という気がしていた。

 その晩、彼女の髪に初めて触れた。
 彼女の細い髪はこれ以上になく指先に心地良く、さらさらと指の谷間に零れていった。綺麗で、胸に抱き締めてしまいたくなる衝動に駆られるけれど、どうにか押さえて、ひたすら髪を撫でた。
 ――ティアナは、兄の話を聞かせてくれた。それから母についても。
 ティアナは、自分が母ほど綺麗でないと思っていた。幼い頃に頭を撫でては微笑んでくれた母や、大きくなって写真で見た母は、ティアナ自身の中のどんな人よりも綺麗で優れていた。兄とは違う意味での尊敬の対象であった。
 母よりも綺麗な人はいないのだ、と彼女は信じていた。それは他の誰がそうと否定しても、ティアナにとって意味がなかった。
 私はそういうティアナの心情を何となくではあるが悟り、彼女が敬いの言葉と共に自嘲ともとれる言葉を口にしても、私は、ティアナの方が綺麗だよ、なんて決して言わなかった。ただ黙って、微笑んだだけだった。それがティアナの一番求めている反応だと直感したのだ。それにティアナの母をよく知らないまま、気を休めるためだけに勝手なことをいうのは失礼だ。
 そんな自分をティアナはじっと見詰めながら、か細くもはっきりとした口調で言った。
「好きです、なのはさんのことが」
 天井で青白い球が揺れていた。月は今晩もサイズの合わないカーテンの隙間を縫って、部屋に入り込んできている。私の胸に、ティアナが甘えるように顔を埋めてくる。私はそれを抱えてしまう。それどころか、ティアナの髪に口付けもした。そんな戯れはくすぐったくて、気持ち良くて、なのに酷く苦しいのは。
 心が勝手に過去へと走っていこうとする。しかし頭上には蓋があり囲いがあり、心が胸の内を出ることはない。でもそれでいい。それさえ保てれば、私は崩れることなどない。
 ただ私とティアナが互いに定めた距離は、いつの間にか曖昧に歪んでしまっていた。まるで天井に浮かぶ青白い球のように。


 ⇒4.子守唄2

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