FC2ブログ

2019-11

別の世界を願うなら―6

第6話「匣、あるいは水の底に落とした石」
5.溶けない雪だるまの続き。
なのはとティアナの物語。パラレルです。
なのははお母さんが大好き。桃子さんもなのはが好き。
でもそこには微妙なすれ違いがあって。その微細なずれがなのはをおかしくさせる。

――なのはは夢を見ている。ずいぶんと深い夢だ。
その夢は今まで、心の奥の奥に仕舞われたまま。
決して開けられることのなかった、匣(はこ)の中の記憶。

なのはの過去。アリサとの出会いの話。
もしよろしければ、続きよりどうぞ。



 別の世界を願うなら

 6.匣、あるいは水の底に落とした石


 眠りの中で、私は少し昔のことを見ていた。ほんの数年前のことなのに、もう大昔のことのように思える。
 私がまだ海鳴にいた頃のことだ。
 父が死んで間もない時期、私はしばしば塞ぎ込むことがあった。かといっても、私はいくら陰鬱とした気分に襲われても、部屋の中に引きこもったり、学校を休んだりはしなかった。ただベッドの上に仰向けになって、模様のない天井を眺めて過ごした。そこに転がる虚無な時間が癒してくれるような気がした。
 しかし私に多くの影響を与えたのは父の死ではなく、それにより身の回りの変化によるものだった。優しい父の死自体は自分にそれほどの影響を与えなかったのである。たぶん、葬儀の日にそういった悪い物質に変化しそうな何かは皆吐き出してしまっていたのだろう。だから私が憂鬱になるのは、どちらかというと自分自身の問題だった。
 兄は以前よりも更に寡黙になり、姉はこれまで以上に腕を磨くようになった。母だけが表向き何も変わらず――少なくとも自分にはそう見えた――翠屋を盛りたてていたが、表面上どう見えようと、最愛の人がいなくなったことがどれほど辛いかというのは、幼い自分にもどうにか理解することができた。しかしどれだけ理解しようと努力したところで、私が掴めるのはほんの僅かしかない。それも朧げにだ。
 母はそれから、父の分まで私の頭をよく撫でるようになった。優しい笑みを頬にたっぷりと浮かべ、「なのははいい子ね」といつも言った。
「なのははきっと、お父さんみたいに優しくて芯の強い人になるんでしょうね」
 目を細め、遠くに想いを馳せるかのように、母は長い間私の頭を撫でた。私が人の頭をよく撫でるのは、おそらく母のがうつったのだ。
 私は母の言葉が素直に嬉しかったし、母が自分に笑顔を向けてくれることを喜ばしく思った。だが私は見てしまったのだ。夜中にこっそりと起きだして、これまでに見たこともないくらい体を小さく縮め、泣いている母の姿を。
 元気になってもらいたいと思った。楽しくも嬉しくもないのに笑うのはきっと辛いだろう、だから嬉しくなるように、楽しくなるように。私は母や家族にとっていい子になろうと思った。
 しかし疲れる時もある。無理をすればたいていのことは出来た。だけれどもそれだけに負担は大きい。ときたまその無理が無理ではないと感じることもあり、それがさらに私を追い込んだ。それは自分の立っている場所を見失うということ。足元の影がなくなるということ。
 私は弱い心を諫めるよう、自身に志を打ち立てた。そして折れたり抜けたりしないように、杭へと変えて体に突き刺した。いつのまにか「杭に模した志」が「志に模した杭」に摩り替わっていたことにも気づいていたけれど、もちろん私は瞼を伏せて気付かないふりをした。
 そんな子供らしからぬ自分ではあったけれど、それでもどうにか歩けていた。ひとえにそれは支えがあったからである。支えがなければとうに折れていたことだろう。自ら体に刺した杭ではない。足が、だ。しかし幸福なことに、支えとなる――つまり人がいた。
 自分が勝手に思っているだけではあった。特別その人が何かをしてくれたわけでもないし、また自分からどうこう言ったわけでもない。だがたしかに当時の自分には支えに違いなかった。
 アリサ・バニングスという名の少女。
 今まで思い出そうともしなかったけれど夢の中だというのを理由に、私はゆっくりと、少女についての記憶を水の底から引き上げる。強気で意地っ張りで怒りやすくて、私の頬を引っ張ることが好きだった少女の記憶は、それこそ溢れるくらいに残っていた。
 同年の、まだ十年と少しばかりの年の女の子だったけれど、私はいつも彼女に支えられてきた。その力強い瞳に、時折かけてくれる優しい言葉に、無垢な笑顔にどれだけ元気づけられていたことだろう。青春期の思い出は彼女で構成されていたと言ってもいい。一見無粋ともとれるほど無遠慮な触れ合いさえ、私には心地よく思えた。
 私はひょっとすると彼女に恋をしていたのではないかと思う。初恋という名を思い浮かべるなら、彼女しかいない。
 近所で、学校で。私はいい子で通っていた。母の笑顔が心からのものであるよう、私はいい子でありつづけた。人に嫌われないようにする術も当然身につけたし、人が笑ってほしい時には面白くなくとも笑うことができた。だから友人は多くいた。もちろん、心をぶつけ合うような仲の友人ではない。表面を掠るだけの付き合いばかりの人たちだ。とはいえ私にはこれといって不満はなかった。遊ぼうと誘えば喜んで受けてくれ、また誘われることも多々あったのだ。ただ休みの日の多くは、喫茶翠屋の手伝いをしていたけれど。
 しかしたまには寂しくなった。いや、それははたして、寂しさと呼んでもいいものなのか。
 自分の中に不満は確かに見つけられない。だが弱音をはく相手がいないというのは、時に耐えがたい苦痛を呼ぶものなのである。自分は平気なのに、発散させることのできない想いだけが盒子(ごうし)の中で暴れ狂っている、それでいて、蓋を開けない限り外からはまったく気づくことのできない衝動だった。すべては匣(はこ)の中の出来事。
 “そして私は蓋を開けることが出来ない。”

 彼女と初めて出会ったのは、小学三年生の秋。私は学校を終え、翠屋で母の手伝いをしている時だった。
「あれ、あんたは……」
 特に感情を込めず、テーブル席に水の入ったグラスを置いた時にそんな声をかけられた。
「ええと?」
 彼女とはその年同じクラスだったから顔に覚えはあったが、一瞬言葉に詰まる。
 ――ええと、確か名前は……。
 私はすぐに彼女の名前を思い出せなかった。それぐらい彼女と関わりを持ってはいなかった。いや、意識的に避けていた。
 当時私はクラスで嫌われないよう、ある程度の好意を抱かせるように振舞っていたから、会話は誰とでもよく持った。にもかかわらず、彼女とはその時まで全く話をしたことがなかったのだ。
「バニングスちゃん」
 何故か彼女は顔をしかめた。厳しくつり上げられた瞳は清澄な碧。
「バイト、なわけないか。あんたもしかしてここの家の人?」
「うん、そうだよ」
「ふうん、そう。で、あんたはここで何してるの?」
「お手伝いだけど」
 そう言うと、彼女は目だけで笑う。
「へえ、いい子なのね」
 彼女のそこにありありと浮かんでいたのは、嘲りのこもった笑みだけだ。
 唐突に向けられた悪意に私が何も言葉を返せずにいると、彼女は頬杖をついたまま「何?」と見上げてきた。私は顔の前で、何でもない、と両手を振る。
「じゃあ、ゆっくりしていってね」
 彼女のテーブルを立ち去った後一度だけ振り返ると、彼女は自分の存在など彼方に追いやってしまったように窓の外を眺めていた。丁寧に磨かれたガラスに映るのは、長い金色の髪に深緑の瞳。
 窓を掠る枯れ葉と秋の風が、彼女の横顔に憂いを添える。肥糧にもならない銀杏の落葉や、赤子の手のような赤いもみじが流離う。彼女はそれを退屈そうに眺めている。あるいは彼女は何も見ていないのかもしれない。彼女が求めるのはただ一つ。暇つぶし。
 ……私は何を考えているのだろう。ここにとどまっていても仕方ない、と踵を返す。
 嫌われるようなことはしていないはずだが、気付かぬ内に彼女の気に障ることをしたかもしれない。
 彼女はクラスでも目立つ存在だ。特定の誰かと親しくするということはないが、それも嫌悪されているとか除け者にされているとかいう意味ではない。一目置いているからこそなのだ。それとは別に、難しい気性をしていると聞いたことはあるけれど。だとしたらまずいかな。
 私は算段をごく自然に積み上げていく。客が食べ終えた後のテーブルを片付けながら、私は彼女への対応について、主にどうすれば好意を持ってもらえるかという計算を、密かに心の中で組み立てていた。
 翌日、学校の授業が引けると、私はすぐさま彼女の席に向かった。
「あの」と私は呼びかける。
 呼びかけの相手はこんなところには無用だとばかりに、颯爽と授業道具を鞄に詰めていた。彼女は頬にかかる濃い金の髪を払いのけ、こちらを振り返る。
「今日、用事はある?」
「あるわよ、習い事たくさんさせられているもの」
 そういえば彼女の親はいくつももっている大会社の経営者だったか。いきなり出鼻を挫かれて、心なし項垂れる。
「あのさ、何か勘違いしているみたいだけど、用事があるのは『今日』で、これから全く時間がないわけじゃないから」
「え?」
「何かあたしに用事があるんでしょ。勘違いじゃなければ、今日授業中にずっと視線を感じてたんだけど」
 ちょうど斜め前の席に座る彼女の背中を見ていたことに、まさか気付かれていたとは。
 どうするの、と彼女は言った。もしかするとはっきりしないことが嫌いなのかもしれない。そうして彼女の事を分析している自分がいる。彼女は賢いみたいだから、悟られないようにしないと。
「じゃあその空いている時間を私にくれないかな。あのあとお母さんに聞いたんだけど、よくうちの店に来てくれているんだよね。よかったら今日も寄っていかない?」
「何で?」
「ええと」
 何だっけ? ああ、そうだ。
「あなたと友達になりたいんだけど」
 私が言うと、彼女はじっと私の顔を見詰めてくる。深い緑に私の顔が映る、それが見えるくらい近く。それから彼女は鞄を取り、ドアの方へ向った。
「付き合うわ。でも勘違いしないで、別にあんたと友達になりたいわけじゃない。あんたんとこのケーキが好きだから」
「それでもいいよ」
 今日は。
「……さっさと行くわよ」
「あ、バニングスちゃん」
「アリサ」
 追う私に、彼女は足を止めて言う。
「その苗字、あまり耳にしたくないのよ、嫌いじゃないんだけど。だからアリサでいいわ」
「アリサちゃん」
 私が確かめるように言うと、彼女はまた歩きだした。私はそのまっすぐな背を追いながら、今一度、彼女の名前を反芻してみる。
 アリサちゃん。
 それは先程までの呼び方よりも、よほどしっくりときた。その時まで呼び方など気にも留めてなかったのが、この日初めて、呼び方というのは大切なのだと教えられた。そしてその日から私は、特別な人には特別な意味を込めて名前を呼ぶようになった。といっても、アリサちゃんの他にそういう人はいなかったけれど。
 そういう意味で、やはりアリサちゃんは自分にとって大切な人であったと言える。
 自分の中で『初めて~』という項目を並べるとするならば、それらのほとんどに彼女の名前が当てはまるだろう。
 初めての友達。初めて名前の大切さを教えてくれた人。初めて自分を見つめてくれた人。初めて喧嘩した人。初めて好きになった人。
 いつの間にか、という言葉がそのまま当てはまる。
 いつの間にか彼女に惹かれていた。ただ学校生活を円滑に進めていくために、眼前に延びる道端に転がった石を手の中におさめるくらいの軽い気分でいたというのに、いつの間にか私は彼女を好きになっていた。
 はじめ、私たちの関係はとても良好とは言い難かった。だが毎日学校で会い、一言二言会話を交わし、彼女といる時間を増やしていくうちに、誘わなくても自然と帰路を共にするようになっていた。同じバスの中で、はじめは離れた席に、何日かしてようやく隣同士で座るまでに至った。これまで他の人と友好を深めた時に比べると亀並の速度であったが、私にとっては素晴らしい進歩のように思えた。何故なら彼女を誘う時には微かに手が震え、了承を得た時には胸が震えていたのだから。
 だがある一定の期間まで、彼女から会話という会話を持ちかけられたことはない。それでも懸命にいくつかのことを私が投げかけて、それにぽつり、ぽつりと返してくれる。そんなささやかなやり取りも次第に心地良くなってきた。アリサちゃんという存在に慣れていったのだろう。たまには笑ってくれることもあったし、彼女が笑ってくれれば私も嬉しかった。
 そんなときに喧嘩をした。当時の自分にとってはひどい喧嘩だった。晴れた夏の日、午後二時頃の日差しを頭から受けているような、強い光だった。私に向けられた言葉は、時間をおいてもなおじりじりと心を焼いて、家の手伝いを終えて自分の部屋に戻った時にはたまらず涙が零れた。
 私はそれまで喧嘩というものをしたことがなかったのだ。初めて人を叩いた手は、その晩になってもじくじくと痛みを訴えた。私はそのとき初めて知ったのである。人を叩くということは、叩かれた人も叩いた人も痛いのだ、と。
 でもあれは許せなかった。
「なのは、人にはね、やっちゃいけないことがあるのよ」
 そう自分に、母が優しく言い聞かせてくれた言葉があった。優しく諭すように頭を撫でながら、「それはね」と言った。
「それは人の大切なものをとることよ」
「盗み?」
「だけに留まらず、ね。その人が大切にしているもの……例えばそれは物かもしれないし、想いかもしれない。何であれ、そういった人が大切にしているものをとってしまうというのは、すごくいけないことなの。誰もが傷つくわ。それはその人が大切にしていればしている程、鋭利なナイフとなってその人の心を切り裂きにかかる」
「……」
「ごめんね、少し難しかったかな」
「ううん。なのは、お母さんの言うことわかるよ」
「そう、なのははいい子ね」
 つまり、と母は言った。
「つけられた傷はずっと残るのよ」
 普段は高い母の声が、この時ばかりは深く重く、銅鐸のように私の胸を震わせた。
 だから許せなかった。母の言葉を覚えていたから、アリサちゃんがクラスメイトの一人の大事なヘアアクセサリを取った場面を見てしまった時に、とっさに動いた。考えが混在する前に己の左手が振り上げられ、彼女の頬を叩いていた。
 アリサちゃんが涙目でこちらを睨んでくる。胸が痛い、でも私は謝らなかった。
「知らなかった?」
 言わなければならないことがあった。
「大切なものを取られた人の心って言うのはね、すごく痛いんだよ」
 白い制服の袖に隠した右の握り拳。その手の平に、自らの突き刺した爪が肉を抉る。
「あなたの頬の痛みよりも、ずっと」
 そのあとは揉み合いになった。互いが傷だらけになる前に、ヘアアクセサリをとられた子が止めてくれたけれど、それで終わり、というわけにはもちろんいかない。その日は当然のように一人で帰り、家の手伝いをして部屋に戻った。張り詰めていた心がしぼんでいく。一人になったことで、私は何にも遠慮することはなくなった。私は父の死以来、初めての涙を流した。
 彼女は本当に、私にいくつもの『初めて』をくれた。
 嬉しいことも悲しいことも辛いことも、彼女は多く経験させてくれた。家族以外のことについて、あれほど思い悩んだこともなかった。それは世間一般の人から見ると明らかに普通ではなかったというのに。
 ――仲直りは、何だっただろう。
 そう、私が謝りに(あくまで頬を叩いたことだけを)行った時、アリサちゃんに先に謝られて面食らったんだ。気が抜けた私は笑ってしまって、それを彼女は真剣なんだからと怒って。
「何よ! 真面目に謝ってるんだから、そんな態度はひどいんじゃない?」
「あ、あは……。ごめんアリサちゃん。私がしようと思っていることを先にされちゃって、それでなんだかよく分からない笑いが込み上げてきちゃって」
「なんであんたが謝るのよ。悪いことをしたのは、ううん、悪いことだって分かっててしたのはあたしだっていうのに」
「うん、でも頬を叩いちゃったから」
「……なのは。あたしさ、昨日の子にちゃんと謝ったから。ここに来る前に、何よりも一番最初にあの子に謝らなきゃいけないって思ったから謝った」
「うん」
「だからさ」
「……うん」
 ――仲直りをしよう。
 笑っていたはずなのに、彼女に両手を握られると目に涙が浮かんできて、変な顔になっていた。でもそれは目の前の彼女も同じ。ちょっと不貞腐れた顔で、だけど少しだけ笑って。やっぱり泣いていた。
 屋上で二人、制服が汚れるのにも構わずに仰向けに寝転がって手を繋いで、時折鼻先をかすめていく風はなによりも心地良くて。青い空が目に沁みるくらいに眩しい日。絵の具でも写真でも表現できないくらいの青があった。

「ねえ、なのは」
 あれから私たちは昼食時間になると、たいてい弁当を持って屋上に上がった。食べた後は授業の予鈴が鳴るまで鈍色の壁に背を凭れ、のんびりと水筒のお茶をすすりながら過ごした。
「なあに、アリサちゃん」
 コップに口を付け、朝自分で入れたお茶を口に含む。母は朝から店の準備に忙しい。だから自然と弁当やお茶は私が作るようになっていた。私は母の負担が減らせるなら、別に構わないと思っていた。それに朝食は母が作ってくれる。夕食は片付けやらで忙しそうにしているから自分で家族の分も一緒に作っているけれど、一緒に御飯を食べてくれる。道場で汗を流したあとの姉と、一段落ついた母。それと私。兄はこの頃山に籠りきりでいないから三人だ。でも寂しくはない。食卓には笑顔がある。
 母は私に向けて笑ってくれる。ちょっと疲れた顔で、「今日のもすごく美味しく作れているわ。そのうちお母さん抜かれちゃうかもね」と誉めてくれる。姉は「はいはい、あたしはどうせ料理がうまくなりませんよ」っていじけてみせる。でもその代りに姉は強い。自分にはない強さをその腕に持っている。
 仲の良い家族。笑顔のある食卓。だから私は寂しくない。
 学校は楽しい。学校に行けばアリサちゃんがいる。この前席替えがあって、隣の席になったばかりだ。私はそれが嬉しくてたまらない。だから授業も苦痛じゃないけど、昼休みは特別に好きだ。たぶん私が一番心を落ちつけられる時間だった。
 アリサちゃんはいつも私を楽しませてくれる。会話のちょっとした切り返しに、頭の回転の良さを感じられるし、彼女には弁才があった。彼女の才は座談においても発揮された。彼女の舌を転がり出てくる言葉は、それはもう魅力的なものに変わっていった。私はしばしば、彼女の話に夢中になった。
 家で飼っている犬の事。なかなか会えないアリサちゃんの父親のこと。私の家の喫茶店のこと。ケーキについての評価など。
 だが彼女は時々突発的に言葉を発することがある。
「あたしはあんたにムカついてた」
 例えばこのように。まるで何でもないことを言ったように表情を変えずに彼女は言う。その言葉は道端に転がる石を蹴るくらい気軽に彼女の口から飛び出した。
「人をぐいと惹きつける魅力を持っていて、あんたはそれが訓練とかそうあるようにしてきた習慣によるものだって言ってたけど、本当に人を惹きつける力っていうのはね、そんなことじゃ身につかないの。生まれ持ったものなのよ。だからあたしが最初、あんたにきつく当たっていたのは、まぁ嫉妬みたいなもんよ」
 私は黙って彼女の言葉を聞いていたけれど、違う、と思った。
 違うんだよ、アリサちゃん。
 嫉妬していたのは自分だ。彼女はいつもクラスで悠然としていた。生まれからくるものなのか、それとも彼女本来が持ちえるものなのか。立ち振る舞いも堂々たるもので、人の顔色を窺いながら生きてきた私こそが、彼女のことを羨ましく思っていたのだった。おそらく。
 だから無意識のうちに避けようとしていたのかもしれない。でなければ、クラスでも異色の彼女を真っ先に引き入れようとしていただろう。彼女は皆を率いることのできる存在だった。私はただ従って、にこにこと笑っていればそれでいいのだから、簡単だった。
 でも現実はすでに違う。私は彼女と仲良くはなった。しかし彼女を輪の中に加えようとは思わない。彼女がそれを望むとは思えないし、また自分以外と仲良くなってほしくないという気持ちがあったからだ。
 私が彼女に惹かれていったのは、ごく自然な流れであった。そこには弊害というものがない。まっすぐに思いを告げることはなくても、日常で起こるささやかな触れ合いに期待したり、会話を心底から楽しんだりすることで満たされるくらいの想いだった。それは決して軽い気持ちだというわけではない。私は、彼女と会って話をして、たまに頬を引っぱられたり指が触れ合えばそれで幸せだった。ただそれだけの想い。
 アリサちゃんは自分以外に親しい人を作らなかった。私は以前のままクラスの人達と一定の距離を置いた付き合いをしていたけれど、一番はアリサちゃんだったし、また彼女もそれを分かってくれているようだった。

 私がよく屋上で空を見ながら何の気なしに歌っていると、彼女は隣に座り、同じように空を見上げた。
 私は歌うのが好きだった。一度彼女に「邪魔じゃない?」と聞いたことがあった。安穏とした昼に雑音を持ち込んでいるのではないかと、突然思いついたのだ。彼女は嫌な事ははっきりと口に出す。しかし同時に、相手を尊重することもできる。だから稀に例外もある。だが彼女は、何を馬鹿なことを言ってるんだろう、という顔で見返してきた。
「嫌なわけないじゃない。その辺で垂れ流しになっている流行の曲なんかを聴くよりは、なのはの歌を聴いている方がずっといい」
 ほんとう? と私は訊いた。ほんとうよ、とアリサちゃんが言った。
「こんなことで嘘なんてつかない。だからもっと歌って。聴かせて、なのは」
 浮かび上がる嬉しさを堪え切れず、私はありがとうと言って笑う。最後の方には涙が交じっていて、うまく言えなかったかもしれない。
 それから私は彼女の前でも抑えることなく歌うことにした。昼だけではない、毎日じゃないけれど翠屋の手伝いのない放課後、週に二日くらいは屋上にのぼって歌った。放課後の屋上では私たちの間に会話はほとんどなかったが、特に必要もなかった。
 屋上だと夕日がよく見えた。沈んでいく陽を眺めていると、お互いの気持ちがそこに溶けていくような錯覚を覚え、寂寥が胸に詰まった。そんな気持ちの中で、私は青い空や灰色の空、紅い空をぼうっと見上げては歌った。彼女はそれを静かに聴いてくれた。
「なのはの声は綺麗ね。濁りのない水みたい。聞いてるとすごく落ち着く」
 あまり褒めてくれない彼女がそう言ってくれるのは嬉しくて、私は以前よりもずっと歌が好きになった。

 穏やかな時間が、一年、二年、三年……と流れていった。だがこの世に永遠というものが存在しない限り、いつまでも流れが一定のままであるはずがない。別れは当然やってきた。ただ考えていたよりも早かった、それだけの違いだ。
 それは中学に入ってからのこと。小学校に通っていたときのように、お昼は屋上に上がってお弁当を食べて、鈍色の壁に背を凭れていた時のこと。お茶の入った水筒の蓋を手に持ったまま。私は一口、それを飲む。
「ずっと一緒にいたいな」
 何気なく口にした言葉に、アリサちゃんは思わぬ反応をした。
 “何も言葉を返してくれない”という反応。
 アリサちゃんはいつだって私の言葉に何かしらの言葉を返してくれた。独り言みたいな呟きにさえ、突っ込みを入れてくれた。だからその反応は私をひどく驚かせた。
 壁から背を浮かして顔を振り返るが、彼女は長い間――実際には数秒かもしれないが、それは私にとって恐ろしく長い時間――硬直した後、目を軽く伏せ、小さく首を振った。
「アリサちゃん?」
 アリサちゃんは初めての友達だった。そして私はひどく臆病だった。
「ごめん」
 だから彼女がそう言ったなら、私はその言葉を受け入れることしかできない。だが一方で、私はみっともなくすがりつこうとする。きっと自分は彼女が言いたいことを分かっている。それでも。
「……何が?」
「多分もう、そう長くは一緒にいられないから」
 きっとアリサちゃんの言葉を聞いてしまえば、傷つくことが分かっていたのに。
「よく分からないよ。何で、そんな。そりゃあいつまでも一緒にいられないことくらい分かってるけど、何も今そんなことを言わなくても」
 違う、聞き出そうとしているのは私だ。
「永遠に、なんて考えてないよ。ただしばらくはこうして、晴れの日は屋上にあがって、こんな風にお弁当を食べて、のんびりと過ごしたいって、それだけだよ」
「それでも」
 耳を塞ぎたくてたまらない、その一方で、彼女の口から聞きたいと思ってしまう。
「なのにアリサちゃん、何でそんなこと言うの」
「それは、あたしがもうすぐこの町からいなくなるから」
 本当に、そう。何でもないことのように言い放つのだ、彼女は。
「父親の望みでね。中学を卒業したら、色々と忙しくなる。いや、もうすでに忙しくなってきている。昔みたいになのはの喫茶店に向かうこともできなくなってきたしね。なのはも気づいているから、そんなことを言ったんじゃないの?」
 そうかもしれない。
「今でも少しずつ忙しくなってきているんだから、中学卒業後は今と比べ物にならないくらい性急な時間の流れを味わうだろうってことを何となく理解しているの。有難いことに、そう理解できてしまう頭を作っちゃったからね。だから今まではまだのんびりとしてきたけれど、それでも下準備はしてたし、続かないことも分かってたわ」
「じゃあ、何で私とっ――」
 仲良くなったの、なんて問いは全くの的外れである。私は言葉をぐっと喉の奥に押し込めた。
「ごめんね、なのは。あたし、なのはの気持ち分かってた」
「え?」
 それはその場においてはひどく間抜けな声だった。
「なのはは分かりやすいから」と彼女が言う。私は息を呑んだまま動けない。
「好きになってくれて、ありがとう。あたしもなのはのことが好きよ」
 彼女は私の右頬に手を添えた。ゆっくりと、感触を確かめるように撫ぜてから、彼女は私の耳にかかる髪をかきあげる。二つに結っていた髪はほどかれ、はらりと肩に落ちた。彼女はしばらくの間、そうやって丁寧に私の髪を梳いていた。
 だけど彼女の手は、やがて私から離れていく。
「あたしは、なのはと同じくらいにパパが好き。忙しい人だから一緒にいることはあまりないけれど、それでも一人だけの親だから。優しくて格好良くて。自慢のパパなの。そんなパパのことがあたしは大好き。だからその父親の希望は叶えてあげたい。それは嫌々にではなくて、“自分がそうしたいと思っているから”なのよ。なのはになら分かってもらえると思うけど」
「それは」
 もう。分かり過ぎて悲しくなるくらい。自分がそうだった。今までの自分そのままだった。
「だからずっと一緒にはいられない」
 手にした水筒の蓋のお茶が音をたてた。そういえばまだ中にお茶が入ったままだった。
 終わりの言葉は呆気無く、突然に訪れる。彼女はいつもそうだ。言葉や話題を整然することができるのに、あえて唐突に口にする。終わりの言葉さえ。
「ごめんね、なのは」
 簡単な、それが終わりの言葉だった。後にはもう何もなかった。青空は青空のままで、弁当箱は空っぽで。話の間ずっと繋がれていた左手は離れることなく、そのままで。だけれども確かに終わっていた。それは抗いようもない事実として二人の間に横たわっている。
 私が髪を伸ばしはじめ、片側だけ髪を結うようになったのはその頃からだった。彼女にほどかれ、梳かれた側の反対。私は左側でだけで結うことにした。無意識のうちに、右側をそのままにしておこうと考えたのかもしれない。

 あれから今もなお、私が彼女と話すことはない。そしてこれからもきっとそうあり続けるのだろう。
 そうして夢の終わりは静かに訪れた。


 ⇒7.世界はもちろん続いている

● COMMENT FORM ●


管理者にだけ表示を許可する

拍手返信なの37 «  | BLOG TOP |  » 別の世界を願うなら―5

Web Clap

ご意見、ご感想などあればどうぞ。
  

Recent Entries

Categories

Novel List

― Short Story ―
アリサ×なのは
心が君の名前を呼んでいた
違えた道の端  前編 / 後編
すずか×なのは
無想と空想と、紋黄蝶
フェイト×なのは
No title...フェイトver
あなたを想って流した涙は
溶けた灰色の小石
白 -white-
穴の開いた箱
なのはへ。
ヴィータ×なのは
StarDust
21.5話妄想
No title...ヴィータver
大切な Trash Box
誰よりも君に笑ってほしくて
Reinforce
真紅のグラス
Limited Sky
強奪者
蒼い棘
薄氷の上で
摩擦熱
あやふやな星
語ろうとした震え
消えない夕立ち
青と白、それから赤
優しい境界線
はやて×なのは
Sky Tears  SIDE:H / SIDE:N
夜色の羽根
eyes on...
孤島の夢
なのは×リインフォースII
小さな涙
スバル×なのは
君は空しか知らない、僕は大地しか知らない
ティアナ×なのは
月明かりよりも頼りない
貴女の血の味すら
失われた部分と残された部分
命を吹き込まれた落葉
台所で。
求めるままの逃亡
涸れた土
ティアナの適当に幸せな一日
迷子へと示す道標  1 /  /
Don't shake off.
空さえ貴方の前を覆わない  前 /  /
窓を打つ雨みたいな恋
月が堕ちてきた
もっとも不誠実な恋人
世界の終わり
銀朱の残照
僕に重ねて、君は夢をみて
ヴィヴィオ×なのは
掌で心をころがして
擬似家族
小さな声で求めて
蜂蜜
硝子内のひめごと
レイジングハート×なのは
午睡
虚空の紅玉
その他
ヴィヴィなのフェイもどき
SHOUT!  前編 / 後編
猫と主と変質者。
なのはにチョコをプレゼントされたときの台詞
なの!!
雷の憂い

― Long Piece Novel ―
幸福の在処
目次
星たちの休日
 /  /  /
別の世界を願うなら
設定 / 目次 / あとがき
追憶の色に埋もれて
目次 / あとがき
秋、はらむ空
前書き / 目次 / 後書き

― Project Story ―
聖夜 ……目次
拍手SS
一代目 手を伸ばして
二代目 時間
二代目 光の章/夜の幻
描写する100のお題 ……目次
陽の中に塗りこめて。 ……目次
振り返る ……目次

About

魔法少女リリカルなのは二次創作物、主に小説を扱っています。
このブログ内で使用している文及び画像の転載は、例外なくご遠慮下さい。

◇小説の傾向
なのはが絡んでいる百合、修羅場が多め。
なのはさんをめためたに愛し、いじめていきます。

◇リンクについて
リンクフリーですが、貼っていただく場合には下の本館にお願いします。
本館:

何かありましたら下まで。
kone6.nanoなのgmail.com(なの⇒@)



Profile

Author:こねろく
リリカルなのはが大好き。
なのはさん溺愛。そしてゆかりさんにめろめろ。
詳しいプロフィールは本館のMYSELFに。

Pixivtwitter

Monthly Archive

11  09  05  04  03  02  01  08  07  04  07  02  06  03  08  07  06  02  01  11  08  07  06  06  05  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09 

Link

その境界線は。(本館)

Search Area