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2019-11

別の世界を願うなら―8

第8話「月は一つでいい」
7.世界はもちろん続いているの続き。
なのはとティアナの物語。パラレルです。
終わりに近づいてきました。

――分からない気持ち。探れない気持ち。教えてくれない気持ち。
でもたぶん、すべて許してしまうのだろう。彼女の気持ちは私よりずっと確かで。
そこらの雪や氷みたいに溶けていかないのだ。

月の光の話。
もしよろしければ続きよりどうぞ。



 別の世界を願うなら

 8.月は一つでいい


 カーテンを引くと雪が降っていた。雲を千切ったような雪は一昨日よりもずっと積り、アパートの前の屋根や樹木を覆っている。細枝に積もった雪は、風が吹いた拍子に下に落ちた。死んでいるように見える木だけど、夏前にはちゃんと葉を広げるのかもしれない。
 目を覚ますとティアナをまず探した。狭い部屋だ、彼女の姿はすぐに見つかる。
 彼女は炬燵にある座椅子の背を倒し、眠っていた。炬燵の電源は切られている。……何のつもりなのだろう。寒くないわけがないのに。まったく、彼女こそ風邪をひいてしまう。私は炬燵の電源を入れた。それから掛け毛布をベッドから持ってきて彼女の身体にかけてやる。これで暖かいはずだ。いや、むしろ熱いかもしれないと炬燵の温度を『弱』にする。
 そこではたと気付く。机の上に置いてあったCDケースが増えているのだ、それも二枚。オレンジのビニル袋の上に乗せられている。
 その二枚のケースには所々に擦り傷のようなものが入っていた。随分と年季が入っているように見えるが、恐らくティアナのものなのだろう。しかし何故ここにあるのか。とりあえず目を覚ました時にでも聞いてみよう。お礼も言わないといけない。
 私は五分ほど風の入れ替えをしてからカーテンを閉めた。遅くまで看病してくれていたのだ、起こしても悪い。風呂場に行き汗でぐっしょりだった服を脱ぐと、熱いシャワーを浴びて頭を覚醒させた。まだぼんやりとしていたが、寝起きに体温を計ると熱は下がっているみたいだったから、恐らく寝すぎたせいだろう。浴室から出る頃には頭もすっきりし、私は湯を沸かしてコーヒーを入れた。暖かくなっていた炬燵に足を入れ(ティアナにぶつからないように折って)コーヒーを口元に持っていく。私は窓の方を見やった。この向こうではまだ雪が降っていて、きっと崩れた雪だるまの上に積もっていっているのだ。私はその場面を想像しようとしたが、どうも上手くいかなかった。諦めてテーブルに置いたコーヒーを半分ほど飲み、ティアナの方に目を向ける。今まで何度も見てきたティアナの寝顔だったが、今日の彼女はいつもよりずっと穏やかな顔をしていた。
「ありがとう、ティアナ」
 口からは、自然と謝礼の言葉が零れていた。
 それから私は立ち上がり、朝食のために冷凍した鮭を取り出そうと冷凍庫を開ける。しかしまず目についたのは魚でも氷でもなく、雪だるまだった。崩れたはずの雪だるまは純白で、記憶の中のそれみたいに赤くはない。雪だるまは透明な袋に入れられ、ひっそりと座っている。
 ――ああ、これは私が作った……。
 胸にすうっと落ちてくる。そして溶けていく。
 あの時崩れたのは、私のじゃなくてティアナの雪だるまだったんだ。私が倒れた時、手に持っていた自分の雪だるまを放って駆け寄って来てくれたんだ。せっかく作った雪だるまは崩れたのに、私の雪だるまはこうして大事に保管してくれていた。きっと私を部屋まで運んでくれたあと、雪だるまをナイロン袋に入れ、冷凍庫に入れたのだろう。もともと冷凍庫にはそんなに物を詰めていないから、雪だるまが座れる空間は十分にあったから。
 でもそこに何の意味がある。ティアナがこんなことをして、どうなるというのだろう。ただ私が一人、嬉しくなるだけなのに――。
 朝の鳥が鳴く。どこかで誰かが雪を踏み締める音が聞こえてくる。雪が降っている。
 そんなどこにでもありそうな朝、私は冷たい床の上にへたり込んだまましばらく動けずにいた。

  ◇ ◇ ◇

「明後日ライブがあるんだ。それを終えたら、私はバンドをやめるよ」
 なのはさんは笑いながら言った。
「嫌いになる?」
 まさか、と私は首を振った。
 ありえない。そんな理由で好きになったわけじゃない。それは確かにきっかけではあるけれど、でも違う。好きという言葉がすんなりと胸に落ち着くらいには、なのはさんの事が好きだ。
 でも、それなのにどうして突然。
「それから海鳴に帰るよ」
 ――突然帰るなんて言うんだろう。
「バンドだって元々真剣にやってたわけじゃないんだ。でもこのまま続けるのは逆にメンバーの人たちに失礼だと思って。機会もあったし」
 機会?
 私は問うが、彼女はそのまま話を進めた。
「その次の日に海鳴に帰ることになると思う。あ、海鳴というのは私の故郷なんだけど。ほら、お母さんが喫茶店してるところ。その海鳴に帰ろうって考えてる。そろそろお母さん年だから。見た目にはきっと年は取ってないんだろうけどね、苦労は人よりずっとしてるはずなのに、小さい頃からずっと変わらないなあ。って話が逸れちゃった。ごめん。ええと、なんだっけ、そう喫茶店。喫茶店をやっぱり一人でやっていくにはお母さんも大変だろうし。お姉ちゃんが手伝っているとは思うんだけどね。だから私は帰って家業を手伝おうと思ってるの。こうしてだらだらと生きてるほど非生産的な事はないしね」
 彼女は話す。世界が終る前に、とりあえずの言葉を残しておこうとしているみたいに。
「それでね、ティアナ。よかったら考えておいてほしいんだけど」
 なのはさんは私の髪に触れながら、何でもないことのように言った。どちらでもいいんだよ、と微笑んで。私は彼女が、どうしてそんな顔をできるのか理解できない。
「私と一緒に海鳴に来る?」
 その言葉はどんな意味を孕むのだろう。彼女にとって、それはどうでもいいことなのだろうか。なのはさんの部屋を出て私はしばし黙考する。降ってくる雪を見上げながら、なのはさんの心の中を想像しようとする。一時間くらいそうしていると、次第に頭が混乱してきた。手の平の上に雪を乗せ、体温で溶けて水になるまでを見送る。
 そうだ、私になのはさんの気持ちが分かるわけがない。幾度も肌を合わせたところで、他人だということには変わりないのだ。少しだけ、彼女に想われる母が羨ましかった。
「そのライブには行きますよ」
 曇り空を見上げながら、私は先ほどのなのはさんとの会話を思い出した。
「ううん、来ないで。いや、来てもいいんだけど中には入らないでほしいんだ。もし来てくれるのなら外で待っていてくれないかな」
「歌姫のお迎え、と言うことですか?」
 出てくる時にはもう歌姫でもなんでもないけどね、と彼女は言った。私は溜息をつく。
「分かりました。じゃあ中には入らないで、なのはさんが出てくるのを待ちますね」
「寒いよ? それに待ってって言ったんじゃなく、もし来てくれるなら、なんだけど」
「だから、行きますよ」と私は二度目の溜息をついた。何故そんなに驚くのだろう。冬の寒い夜にだって、好きな人を待つくらいは出来る。
「なるべく早く出てきてくださいね」
 そしてなのはさんは遠慮がちな笑顔をくれた。
 ――私と一緒に海鳴に来る?
 やはり彼女の事が私にはよく分からない。ならば尚更、彼女が何を考えて言ったのか、その正解に辿り着くのは難しそうだった。

 私はいつも時間を潰している喫茶店に行き、いつものように砂糖を落としたあとカップを指ではじいて甘くなっていく様子を見て、いつものように紅茶を飲んだ。一口飲んだ後で窓の外を見ると、やはり雪が降っていて、通り過ぎていく人々は傘を差して歩いていた。寒そうにポケットに手を突っ込んでいる人もいれば、恋人や友人と寄り添い歩く人もいた。私はそれを窓ガラス越しに眺めていたが、次第とそういう一連の行動に耐えられなくなって立ち上がった。レジで勘定をし、店を出る。
 街を二、三時間ばかりふらつき、陽が暮れるのを待ってからピアノバーに向かった。社会の位置のどこにも属さない私が行けるところは、その場所くらいだった。
 私は濡れた地面を歩いた。雪は既に止んでいたが、踏まれてぐちゃぐちゃになったり溶けたりした雪が、コンクリートを濃い灰色に塗り替えていて、どことなく情けない気分になった。
 頭上の雲と地上との間には境界線が引かれており、私にはなにか別の世界のように感じられる。しかしそう見えただけで、地面の比較的綺麗な水たまりには空の様子が映っていた。それがあまりにも綺麗で、私は思わず顔を上げた。雲がすべて朱に染め抜かれている。太陽自体は姿を見せないのに、光だけでその存在を表していた。紅い雲と紅い雪。道路の雪は溶けているけれど、街路樹の枝や道路端にはまだまだ残っている。
 唐突に、雪だるまの事を思い出した。
 私が目を覚ますと、なのはさんは雪だるまを炬燵のテーブルに持ってきて置いた。それから雪だるまはベランダに置くことした。言い出したのは私だった。なのはさんは渋ったが、いつまでも冷凍庫に入れているわけにもいかないし、それに私は彼女が一目見てくれればそれで良かったのだ。役目はすでに終えている。私は薄っすらと雪の積もったコンクリートの上に白い雪だるまを置いた。そしてこっそりとその雪だるまの頭に手を乗せる。雪だるまは当然のように冷たかった。特に炬燵の熱に温められた指には。だけど触れないわけにはいかなかった。
 私は雪だるまに向かって呟く。
 ――あのね、わからないかもしれないけど、君はなのはさんに存在だけで笑顔を与えたのよ。これは凄いことなんだから自慢してもいいくらい。そうね、どれだけ凄いかって言うと、無機物のあなたにあたしが焼きもちを焼くらいには凄いわ。って恨み事を言ってどうするのよ、ごめんね。なんだか可笑しな言い方になっちゃうけど、水になって、また空に上がっても……。
 言葉はそこで途切れた。ふと考え事をしている時に突然思考を取りこぼしてしまったように、言葉の一切を失くしてしまった。
 私はガラス窓を閉じて部屋に戻る。
 なのはさんは私の行動を後ろで見ていた。寂しそうな顔をしていたけれど、いずれは溶ける存在なのだ。それがあの雪だるまは少し早かっただけ。だけど私はなんとなく彼女に謝った。彼女は不思議そうに首を傾けた後、すぐに笑顔になって、髪を撫でてくれた。優しい掌が、私は嬉しかった。

 海鳴に行けば何か変わるのだろうか、と私は考えてみる。
 家族のいないミッドチルダに未練はないし、むしろ兄の命を奪った魔法をそれほど好きにはなれない。だから離れることに抵抗はないが、私はどこか海鳴に行くことに躊躇いがあった。向こうへ行けば、簡単にはこちらに戻ってくることができなくなる。そうすればピアノバーで弾くこともなくなるだろう。それは母や兄とのつながりを断ち切るのと同義。
 だがそれでも私は海鳴へ行くのだろう。
 なのはさんがいる、ただそれだけの理由で、きっと私はミッドチルダに背を向けることが出来る。そこにからみつく幾重もの線を千切って、なのはさんの故郷へ行く。例え彼女がどういう気持ちで私を誘ってくれているのだとしても。
「今日はあの綺麗なお嬢さんは来ないのかい」
 バーに入るとマスターに尋ねられた。私は頭を振って答える。
「みたいです。だからあたしだけで勘弁してくださいね」
「はは、構わないよ。それよりも弾いてくれるかい?」
「ええ」
 マスターの言葉に頷き、フロアの黒光りするピアノに向かう。ペダルに足を乗せ、鍵盤に指を置くと、深く息を吸った。
 まだ私は彼女から「好き」という言葉の返事をもらっていない。催促していないのだから当たり前かもしれないけれど、やはりそれは寂しいし不安にもなる。――だけど。
「嬉しかったよ、雪だるま」、そう言ってくれた彼女の笑顔が、特別な人にのみ向けられるものだと信じたい。そこに僅かでも好きだという気持ちが込められているのだと。
「今日は何だか哀しい曲ばかりだったね」
 カウンターに戻ったときにマスターが一杯のウイスキーを差し出して言った。グラスの中で、水と氷がぶつかる冷やかな音が聞こえる。私はお礼を言って手に取った。冷えたウイスキーを口に含み、咥内を湿らせる。目の前で揺れる褐色の液体を泳ぐ氷の軌跡を追う。いずれはこの氷も溶けてしまうのか。
 どこかで聞いたことがある。初恋は、このグラスに入ったお酒の中に沈んで溶けていく様子に似ている。そして泡沫となって消えていく、決して実ることのない恋の事を言うのだ。だけどもしそうなら、私のなのはさんへの想いも、やはり泡沫に消えてしまうのだろうか。
「マスター、体から入る関係ってあると思いますか?」
 私はグラスを磨く店の主人に向かって言った。マスターは「どうかな」とグラスを台に置き、振り向く。
「そういう人もいるだろうね」
「出会ったその日に、というのはあるのかな。遊びではなく、かといって好きだったわけでもない」
「世の中にはいろんな人がいるからねえ」と主人はまた別のグラスを拭き始めた。グラスはまだまだあるようだ。
「実はセックスというのは、恋愛とは全く別の事のような気もするね。若い女の子たちは躍起になってその二つを結びつけようとし内側で滾るものを隠すし、また男の方もそうやって欲望を綺麗なものにみせかけようとするんだ。これはあくまでも個人的な意見だけど。そう言うと多くの人は、やっぱりそんなことないって否定するけどね」
 私は黙っていた。黙ってグラスを傾けた。
「だから結局は相手の気持ちによるんじゃないかな」
「それが分からない場合はどうでしょう」
「本人はどう思っているんだい? 遊びでもなく、好きでもない相手と寝たその本人は」
 私は少し考えて答えた。
「どうやら本人も分からないみたいです」
「じゃあ何かしら、その相手に惹かれるものがあったんだろうよ。そりゃあ私にはわからないけどね、でなきゃ他に考えがつかない」とマスターがこちらを見ないまま言う。「で、今その本人は、相手の事が好きなのかい」
「たぶん」
「たぶん?」
「“たぶん”。これから先……少なくとも一世紀は心変わりしないくらいには好きだと思います」
「なんだ、じゃあわざわざ考える必要なんてないじゃないか」と彼は呆れるように言った。
「究極的には始まりなんて別にどうだっていいんだよ。きっかけというのは大事なんだろうけどね、でも今その人が好きなら何も考えることはない。好きだと思っていればいいんだ」
「たとえウタカタのような初恋でも?」
「そうだ。初恋の相手が、人生を共にする相手にはならないと誰が決めたんだ、なあ?」
 そう言って彼は奥で料理をする女性に向かって訊いた。女性は笑っただけで何も言わなかった。女性とは彼の妻だ。
「マスターの初恋って、ママだったんですか?」
「違うよ」
 私は思わず脱力する。
「何なんですかそれは……」
「やはり初恋というのは実らない確率の方が高いらしくてね。私の恋は想いを伝えられないままにはじけてしまったよ。まあでも」
 そこまで言うと彼は咳払いをし、私の前に来る。テーブルについた手には幾つもの皺がごく自然に刻まれていた。そこには不自然さや醜さといったものが感じられない。
 そうだな、と彼は手を口元にもっていく。
「もしその低い確率の中でも想いが泡になって消えていかず、また相手もその人の想いを受け取ることができたなら、それこそ運命的とは言わないか」
 ふとそのとき初めてこの店に音楽が流れていることに気づいた。口に滲ませた酒のように、じわりと鼓膜に広がっていく。入って来た時はどうだっただろう。覚えてはいない。もしかしたらかかっていたような気もするが、演奏する際にはそんな音は聞こえてはこなかった。恐らく私が演奏を終えたあとで流され始めたのだろう。思考を邪魔しない程度の音楽。それは偶然にも私が先ほど弾いた曲だった。あるいは偶然ではなかったのかもしれないが。
「運命的、ね」
 運命と偶然との間に、それほどの違いを私は感ずることができない。でもその微かな違いの中に、何か自分にはわからない重大なものが含まれているとしたら、素敵かもしれない。そう考えるようになったのは、あの人と出会ってからか。彼女自身は運命とかいう言葉をどうでもいいものと捉えていそうではあるけれど。
「ティアナとあの綺麗なお嬢さんは、さてどうかな」
 主人が独り言のように呟き、またグラス磨きに戻った。
 店の客が出ては入っていく。頻繁にではないが、その繰り返しが何度かされたところで、私はコップに注がれたウイスキーを喉に流し込み、席を立った。
 とりあえず分かったことがある。
 確かに今の自分は考える必要もない程、なのはさんの事を想っているらしい。
 私はその翌日、喫茶店とバーとの間にある襟巻の専門店に行き、日頃寒そうな格好をしている彼女にプレゼントを買った。

 そしてライブ当日、つまりなのはさんが故郷に戻る前日になると、私はライブハウスの傍にある喫茶店で時間を潰し、終わる時分を見計らって彼女を待つことにした。底冷えのするような夜だったけれど、私はちっとも苦痛には感じなかった。人を待つ時間というのは、それほど悪いものじゃないと思っている。待つ人がいないよりはずっといい。
 ただ、待ち合わせに来てくれない場合を考えると寒気がしたが、それもすぐに抜けていく。彼女が来てくれない想像がどうしてもできなかったのだ。建物からひょこっと顔をのぞかせて、お待たせ、と言うなのはさんの笑顔を、私はすぐに浮かべることができた。
 今夜あの人はどんな歌を歌ったのだろう。なのはさんは暇つぶしと言っていたけれど、初めて歌を聞いた日、そんな言葉じゃ括れない何かを感じたのは確かなのだ。今そのとき浮かんだ想いを引っ張り出すのは難しい。だが彼女はきっと歌うことに幾らかの意味を含めて歌っているはずだ。でないとあんな歌い方はできない。
 彼女の容姿と同じくらい綺麗な声だと思った。山奥に流れる一条の川を思わせるほど澄んだ声、瞳に宿るのは弱い、それでいて夏の夜天に煌めく星よりもずっと白い光だ。だから星というよりは、まるで月。あんな、哀しい歌はない。
 だから彼女に初めて自分のピアノを聴かせた日に、一番目に『悲愴』を、二番目に『月の光』を弾いた。『月の光』はベルガマスク組曲の一つで、ドビュッシーにより作曲されたものだ。
 管理局に勤める前の兄が多く弾いていたものの一つに『月の光』があり、私はその曲を覚えていた。『月の光』は強く私の胸を震わせたのだ。両手で叩くよりも強く強く、何かを訴えてきた。小さかった頃の自分にはそれが何か分からなかったが、その曲を好きだということだけは確かだった。
 私は兄の演奏が好きだった。だから兄がピアノを弾き始めると、幼い頃の私は駆け寄り、弾いてとせがんだ。
 彼女の歌声のように澄んだ夜空の旋律は、ずっと私の心に残ったままになっていて、兄が死んでからもしばし弾いた。それは避けられなかったのだ。その曲を弾いていると、私は爪先から次第に溶けていくような感覚に囚われた。
 ――それは選り抜かれた幻想の中の風景。
 ――はっきりと視ることの出来る旋律と、悲しげで美しい、静かな月の光。
 晴れた空にあるのは二つの月。
 髪を飾るリボンに時折触れながら、私は荷物を持っていない方の手を上着のポケットに入れる。手を繋いだ時、いつも冷たいあの人の手を温められるように。
 『月の光』を口ずさみながら、私はなのはさんを待った。

  ◇ ◇ ◇

 最後のライブはほとんど事務的に終えた。一つの区切りみたいなものだ。
 観客席にはスバルの姿もあったけれど、私は何かしらの合図を送ったわけでもなく、ただ通常と変わりなく歌った。自分が抜けるということを観客に告げたわけでもないし、何か特別なことをしたわけでもない。ただメジャーに移るというのにメンバーの誰も告知しないのが気になったが、私の与り知るところではないのだろう。
 いずれにせよ、既に私にはどうでもいいこと。私にとって本当のライブはこれから、部屋で起こることだった。
 ライブハウスを出てしまうと、喧騒が急に遠くなった。なんだか現実まで遠くなった気がしたが、感傷に浸ることなどもちろんあるはずもない。現実はそこにある。複雑なことはなにもない。ティアナがいるという、ただそれだけで証明できるほど簡単な世界だった。
 ティアナは見慣れないリボンを着けていた。ネクタイにも見える型をした、黒い生地のリボン。その広ばった先端に白十字が描かれている。些か風変りなリボンだったが、朱の髪に黒がよく映えていた。それは本当にティアナに似合っていた。
 リボンの事を褒めようか迷っていると、ティアナは手にしていた袋を開け、中身を差し出した。私は首を捻る。彼女は袋の包みを開けると、暖かそうなベージュのマフラーを取り出し私の首に上手く巻いた。良く分からないが、暖かいから恐らく上手いのだろうと思ったのだ。
「似合ってるかな」
 苦笑しながら訊くと、彼女は微妙な笑顔で頷いた。曖昧な返事に、もしかして似合ってないのかもしれないと不安になりかけていると、彼女は幾許か顔を歪め、「似合ってます」と言った。
「どのくらい?」と尋ねると、彼女はしばし考えるふりをする。端正な顔を引き締め、その整った唇に折った人差し指を持っていく。
「そうですね。あの二つの月が惹き付けられ、堕ちてくるくらいには、今のなのはさんの格好は魅力的だと思います」
「ありがとう。ところでこれ、手作りなの?」
「既製品です。もし手編みの方が良いなら、来年まで待ってください。練習しておきます」
「これでいいよ。十分に暖かいし、それにティアナがプレゼントしてくれたものなら、既製品と手作り、そのどちらでも私は嬉しいよ」
「裁縫好きな子には言わない方がいいですよ、それ」
「何で?」
「いえ、まああたしはどちらかと言うとそちらの方が都合がいいですので、問題はないです。それにもうすぐ春だから」
 たぶん自分が馬鹿なせいだろうけど、私には彼女の言っていることが良く理解できなかった。
「ねえなのはさん、暖かいですか?」
 彼女は答える気がないようで、私は仕方なく頷いく。彼女のくれたマフラーは実に暖かかった。今まで気にしたことはなかったけれど、マフラーというのも案外良いものかもしれない。それとも彼女がくれたから暖かいのだろうか。まさか。
 私はティアナを見返し、「ところでそのリボンはどうしたの?」と最前から気になっていたことを尋ねた。彼女は顔を綻ばせながらリボンに手をやり、「兄に貰ったんです」と言った。
「それにしては今日初めて見たよ」
「それはだって、兄が死んでからは初めてつけたから。ずっと丁寧に保管してて……でも痛んでなくてよかった」
「ティアナに良く似合ってるね」
「どのくらいですか?」
 先程のやり取りをなぞるかのようにティアナが尋ねたので、私は彼女の体をひとたび抱き寄せて「詩人じゃないから巧く言えないけど、少なくともこのまま抱き締めていたいくらい似合っていると思う」と耳元で囁いた。彼女が顔を赤らめたのに満足し、私はゆっくりと離れた。
 途端、今まで寒さなんて意識していなかったのに、急に体温が冷えたような気がした。すっと体の外に熱が逃げていく。寒くて、つい身体の前に垂れたマフラーを握る。握った手に、ティアナの手が添えられる。心臓に直接触れられたような錯覚に襲われる。けど振り払えない。
「あたしはなのはさんと一緒に海鳴に行きます」
 ティアナが空に浮かぶ月を見上げながらそう言った。ずっと重く、その言葉は響いてくる。
 ――それは一つの答えにすぎない。近い未来に離れることはなくなったとはいえ、遠い将来訪れることまで回避したわけじゃない。
 しかし私は頷く。とりあえず嬉しいことには変わりない。
 ティアナが答えをくれたこと自体が嬉しいのだ。そう、だから問題ではない。何も。もし彼女がこちらに残ることを決めていたとしても、事態はそれほど急変はしないはずだった。
「そういえば言ってなかったね」
 私は添えられている彼女の手を取った。彼女は一瞬だけ顔を顰める。もしかすると払われると思ったのかもしれない。そんなことは私はしないよ、と言ってあげたかったけど途中で止めた。
 彼女の手はいつも暖かくて、ずっと繋いでいたくなる。永遠がないにしても、信じたくなるくらいには暖かい。自分よりもずっと長く外にいたのに、どうして彼女の手は暖かいのだろう。
 しかしそんなことはどうでもよかった。私は彼女の熱を受け取り、そのことで随分心が安らいでいるという事実こそが重要だった。彼女の小さな笑顔が胸に詰まっていく。そういった久し振りの感覚を、私は言葉にしてみようと思った。
「ティアナのことが好きだよ」
 触れるだけで暖かくなるような彼女の熱が、心地良い。
 一緒にはいられない、とアリサちゃんは言った。一緒に海鳴に行きます、とティアナは言った。
 私が彼女に想いを告げられたのは、アリサちゃんの言葉と反対の事を口にしたからだろう。私は考えながら、形のいいティアナの唇に重ねる。――好きだという時くらいは何も考えずに笑えればいいのに。なんてどうでもいい事を思いながら。


 ⇒9.愚かしい劇と忠実な視線

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魔法少女リリカルなのは二次創作物、主に小説を扱っています。
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