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2019-05

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別の世界を願うなら―10

第10話「蓋を開ける」
9.愚かしい劇と忠実な視線の続き。
なのはとティアナのパラレルな物語。
最終話です。

――秋が冬に、冬から春に。
季節の移ろいは否応にも景色を変えていく。
なのはが考えることといえば、過去と現在についてだけだった。
未来なんてどこにもない。

蓋が開けられた話。
もしよろしければ続きよりどうぞ。



 別の世界を願うなら

 10.蓋を開ける


 朝起きて道路に水を撒いていると、店先に植えた花壇に花が咲いていることに気づいた。
 のっぺりとした広い葉から真っ直ぐに茎が伸び、先端にふっくらとした花弁が少しだけ開いている。赤と黄の混ざった花弁もあったし、純粋な赤だけの花びらや、白い花びらもあった。全体的に淡い彩色の植物は既に水をやった後なのか、水滴を落としながら可愛らしく空を向いている。見ていると、気付けば自分の口元が緩んでいた。
 チューリップ、と私は呟く。
 海鳴の朝は早い。忙しく準備に勤しんでいた母に尋ねると、にっこりと頬に笑みを浮かべ答えてくれた。どうやら今年は咲くのがちょっとばかり早いみたいねと。暖かいから。そうだね。と私も返した。
 可愛らしい花を見ていると、桜が咲かなくてももう春だと感じる。実際にもう春だ。樹にはつぼみがいくつも枝につけているし、あと一週間もすれば、白い制服を着て赤い鞄を背負った子供が店の前を通り過ぎていくだろう。学生たちも、頻繁に店に見えることになる。そうしたら今以上に忙しくなる。
 姉はほとんど家業を手伝ってはいなかった。料理の部分では母に頼るしかないから、料理を運んだりはしていたみたいだったが、それもたまにのようだ。
 というのも、姉はそそっかしいところがあるから、向いていないのだというのが母の言だ。しかしそれが母の気遣いだということは分かっていた。姉は道場にこもるか兄と山に登るかという生活をしていて、とてもそんな余裕はなかったのだ。だから実質、母一人で店を経営していたことになる。私がここに住んでいた時に比べると客は少なくなっていたが、それでも繁盛しているといえるくらいには忙しかった。
 姉は何をやっていたんだと文句を言いたくなったが、余所に逃げていた自分が言えることではない。だがこういう状況を見て、私は改めて帰って来てよかったと思い直していた。
 母は私が海鳴に帰ってきたことを喜んでくれた。大学を辞めたことを特に咎めもせず、お帰りといってくれたときには、思わず瞳が濡れそうになった。でももちろん泣かなかった。隣にはティアナがいて、まずは彼女のことを紹介しなければならなかった。物事には順番がある。
 かしこまった様子のティアナに対して、母は「なのはのことをお願いね」と言っただけで、それ以上何も言わなかった。もしかしたら私の知らないところでティアナと話すことがあったのかもしれないが、その内容を知るべくもない。また知らなくてもいいと思う。母がティアナの事を気に入ってくれたのは後の行動からも見てとれたし、無闇に人を嫌うような人ではなかった。
 それにティアナはいい子だ。自分には勿体無いくらいに。
 一昨日だったか、何気なく母にそう言ったら笑われてしまったけれど。

 この日は早く仕事を終え、久しぶりに時間が空いた。
 営業時間は通常通り午後七時までなのだが、母が気を遣って「今日はお客さんも少ないから」と言ってくれたのである。私は別に休みなどなくても構わなかったのだけど、ティアナの事を思慮するなら、たまには二人で出かけるのもいいかと思った。それに母の気遣いを無碍にするのも忍びない。
 もう夕方で陽が暮れかけていたけど、街を歩くには問題のない明るさだ。私は着替えをしているティアナの部屋に行った。ティアナはちょうど店の制服のブラウスを脱いだところで、白い背中が見えた。綺麗だなと思いつつも口には出さず、振り向いた彼女に「これからどこかへ行こうか」と尋ねてみる。彼女はほんのりと頬を染めて頷く。
「場所はどこがいい?」
「そうですね。あたしはまだここの事をほとんど知らないので、出来ればなのはさんに連れて行って欲しいです」
 といっても、ここ何年か離れている間に店が所々変ったようで、私もあまり分からない。
 しばらく思案した後、ある場所を思いついた。本当はティアナを誘おうとした時に頭に浮かんでいたのだが、彼女に希望する場所があるなら変えてもいいと思っていた。しかしよくよく考えてみれば、こちらに来てからティアナが買出し以外でどこかに出かけるということはなかった。
「じゃあついてきて。ここからちょっとバスで行くとね、見晴らしのいい場所があるんだよ。ティアナにはこの町を一望してほしいと思ってたんだ」
 もう春も近い。だからジャケットはいらないけど、マフラーだけ巻けば十分な暖かさだ。
 私は彼女の着替えが済むのを待ってから歩きだす。
 彼女は、白いパーカーのトレーナー、それにミニの赤いプリーツスカートというラフな服装をしていた。にも関わらず、彼女が身に着けているというだけで、センスの優れたものに見えてしまうから不思議だ。
 目的の場所は言わなかったが、彼女も特に聞いてこない。黙ってついてきてくれる。
 ふと見れば彼女が手を繋ぎたそうにしていた。しかし私は彼女の手を引こうかと考えた末に結局離れて歩くことにした。だって空が赤いし、何よりここは海鳴だった。

 ――支配者はいつだって孤独だ。
 特別ここの支配者は、孤独だということを忘れるくらい長い間空に座っている。私たちの突然の乱入さえ、あの支配者にとって一陣の風が吹くよりもどうでもいいことなのだ。……その支配者は、もうじき沈む。紅い残像を残して。
 私とティアナは階段を上り、屋上のドアを開けた。学校だった。
 風が吹いて、ぎしぎしと音が鳴った。体力のない自分は少し息が切れていたが、ティアナは平気そうだった。私は数度深呼吸をし、息を整える。それから扉が開かなくなるという事がないように、昔置いてあった木の棒を扉の間に挟むと、柵に手をかけた。
 彼女はもちろん、ここに入ってもいいんですか、なんて詰まらない事は訊いてこなかった。彼女はただ黙って町を眺めていた。それから首を持ち上げて空を見上げる。
 久し振りに来たが、ここからの景色は何年たっても変わらない。あの頃に見上げた景色そのままだ。ゆったりと雲が流れていく。目に沁みるほどの紅さが、灰色の足場を焼いている。
 昔、通っていた時はここで唄を歌った。適当な唄。その時流行っていた曲や音楽の時間で歌った曲、何でもいい。歌うことそれ自体も気持ち良かったが、歌っている時、アリサちゃんとの間に流れる空気が日々錆びていく心を和ませてくれた。
 だから私にとってここは大切な場所だ。一緒に海鳴に帰ろうと最後に誘った時、一番にティアナを連れてきたいと思った。おかしいだろう。その一時間前には、ティアナと離れる気でいたのに。
 私は綺麗だね、と柵に手をかけたまま、目を細めて言った。
「そうですね、町が赤く染まっていて、凄く綺麗だと思います」
「ティアナがだよ。町並と同じようにさ、夕焼けに煽られた横顔が綺麗」
「なのはさんも綺麗ですよ。綺麗なだけでなく、年上なのに時々凄く可愛く見えます」
 少し照れて彼女が言った。私は首を振る。
「ありがとう、でも私は別にどうでもいい。ティアナのは本当に綺麗なんだよ」
「どうでもいいって」
「ティアナの顔も髪も指も心も、凄く綺麗。なのに、私なんかを選んだ理由が未だにわからない。私がティアナに何をしたの? 何もしてない。ティアナは空洞を埋めてくれたって言ってたけど、私が埋められるはずはないんだよ」
「どうしてですか?」
「私だって、埋めてもらった人間だから。私も昔、ティアナみたいに空っぽだったよ。ティアナみたいにって言葉はちょっと違うかもしれないけど、とにかく空っぽだった。お父さんが死んでお母さんを喜ばせたくて必死になって、自分の許容量を超えることをするためには、自分の中を空洞にしなくちゃ壊れてしまいそうだった。段々と無駄なものを削除していってたら、そのうち何でも平気になってきた――無感動、になりかけていたんだと思う。でも今こうしているように、私が無感動になることはなかった。悲しいことにね。救ってくれた人がいるんだよ。小学校三年の時に出会った人が、私を救ってくれた」
 ティアナは口をつぐんでいた。
 私は柵に腕を乗せる。俯きたくはなかったから、どうにか顎を持ち上げ、暮色の空を見上げながら話を続ける。
「その頃の私は、家族以外の人間に対しては計算しながら近づいたり離れたりしていた。どうすれば一番嫌われないか、また適度に好かれるかを考えて行動した。あまり好かれすぎると妬まれる。その微妙な距離をとることは、幸い、私にはそう難しくはなかった。だからさ、その子に自分が嫌われいるかもしれない、と思ったときはどうしようかと悩んだよ。なんせ私はその子がどうにも苦手で、今まで近づいたこともなくて。でも無理だということはできなかった。あの子の顰め面をなんとか笑顔に変えようと努力して、それでようやく少し仲良くなれてきたかなってところで、喧嘩しちゃった。私それまで友達と喧嘩したことがなかったんだよ。薄い関係を保ち続けていたからね、気付かなかった、驚きだよ。でもそんなことはどうだっていいの。喧嘩をすることは痛かったけど、大事だって分かったんだから。雨降って地固まる、という諺(ことわざ)、知ってるかな。仲違いをした後は、それ以前よりもずっと親密になれるって言葉なんだけど。私とその子はまさにそれだった。急激に仲良くなっていって、良い所もいっぱい見つけられるようになって、もちろんその分嫌なところも見つけちゃったけど、許せるんだよね。不思議と」
 私はそこで息をついた。柵から腕を離し、身体を反転させて背を凭れた。雨風に曝されて、風化した壁が陽を受けていた。
「好きだったんですか、その人のこと」
「そうだよ」と私は言った。
「大好きだった」
 小学生の時は好きの違いが分からなかった。中学に入ってからぼんやりと分かるようになった。中学二年になって、ようやく確信が持てるようになった時、別れが訪れた。
 それは悲劇でも何でもない。恒久的な関係などあり得ないのだ。でもその頃の自分は分かっていなかった。いや、分かったつもりで、全く理解していなかった。今も、こうしてティアナと一緒にいようとしている。愛するという言葉の意味もよく分かってないくせに、大切だという気持ちだけで、ティアナを受け入れた。
「凄く好きだったんですね、その人の事」
 隣を向けば、ティアナがこちらを見詰めていた。「妬ける?」と軽口で言うと彼女は首を振る。冗談の色は見えなかった。
「どうでしょう。妬いているかいないかで言えば、妬いていると思います。でもごめんなさい、やっぱり分からない」
「いいよ。おかしなことを訊いてごめんね」
「それからその人とはどうしたんですか?」
「今私がその人と会っていない、そしてミッドチルダに行った。ということが答えにはなると思うよ」
「なのはさんの口から聞きたいですよ」
「ティアナはたまに酷いね」
 それ以上に酷いのが自分だということは、もちろん知っていた。
「振られたよ。振られたって言葉は正確じゃないかもしれないけど、まあいろいろな事情もあって離れなきゃいけないことになったから。でもそれから時間は少しあったの。中学二年だったから、あと一年くらいは一緒にいられるはずだったけど、私が逃げちゃったんだ。怖かったからずっと避けてた。卒業までそれが続いて、そして今も続いてる。……あのさ、この辺でやめようか。もう陽が沈むよ」
 ティアナは何も言わなかった。ただ頷いて、私と同じように柵に背を凭せかけた。
 風が吹き、雲がいそいそと流れている。ゆったりとした時間の流れにおいて、雲だけが先を急いていた。私はそんな雲を眺めながら、あの雲はもしかしたら太陽を追いかけようとしているのではないかという考えが浮かんできた。無駄だと分かっていながらも太陽の後を追う雲。きっとそう見えるのは、夕焼けがすべてを悲しく見せている所為だ。屋上に上がって太陽の残光を受けたとき、太陽自身が背負っている哀愁をまとめて投げつけられていたのかもしれない。
 ティアナがいてよかった。一人だとこのまま柵を越え、飛び降りたくなっただろうから。紅い陽は、私を彼――地上の支配者――の孤独の引きずりこもうとする。
 だから私はさっさと背を向けた。それでも空は紅いまま。雲も消えない。はやく闇が落ちてくればいいのに。
「なのはさんはきっと後悔しているんですね。中学二年生の時にその人を引き留めなかったことを。そんな顔をしています」
「どうかな。結局私が引き留めたところで何が変わったわけでもないし、それに迷惑がかる」
 私がそう言うと、ティアナが鼻で笑った。
「馬鹿らしい。結果を考えて行動するなんて、大人のすることですよ」
「子供の我が侭で簡単に解決できるはずだった物事を複雑にしたり、台無しにしたりする方が馬鹿だよ。どう考えても。迷惑をかけずに生きていく、それのどこが悪いの」
「悪いですね、すべて。そうやって自分の中に溜めこんでるから、今みたいに捻くれちゃってるんですよ」
「言うね。まあいいや。どちらにしても、好きな相手に悲しい顔をさせてまで引き留めるなんて、私には出来ないよ。自分が傷つくなんて別にどうとも思わないし、なにより自分の好きな人――家族だろうとあの子だろうと、その人たちが傷つくよりも自分で溜め込んだ方が、自身の精神衛生的にもずっといいんだよ。それは無論、自己犠牲なんて大したものでもないからね」
「それでもなのはさんは引き留めるべきだったんです」
 ティアナが私を睨む。彼女の方を向いていなくても伝わってくる強い視線。だけどそんなものを刺さされても、私にどうしろというのか。いまさら過去に戻れるわけでもないし、また過去に戻ったところで自分は同じことをするだろう。むしろ戻りたくない。あんな思いをどうして二度もしなきゃいけない?
 指の先からじりじりと正体不明の何かが這い上がってくる。決して人にぶつけてはいけない何かだ。匣に押し込めていたそれが、鎌首をもたげつつある。だからティアナの方を向けば、それが自分の元を離れて彼女に襲いかかることが予想出来ていた。だが私は彼女を振り返らずにはいられなかった。
「ティアナはどうしてそんなことを言うの」
 もし仮に私がアリサちゃんを引き留めていたとして、それが叶っていたらティアナと出会うこともなかったのに。
 ティアナはいい加減私に呆れてしまったのだろうか。有り得ないとは思わない。ティアナが先ほど言ったように、私自身、自分のことを捻くれ者だと思っている。率直で真っ直ぐな彼女にはそれが耐えられないのかもしれない。
「多分ティアナは私を見ていると焦れったいんだよね。苛々してるんだ」
「そうですね、苛々はしてます」
「ティアナ、私の事嫌いになったんだね。それなら帰ればいいよ、ミッドチルダに。注文してたピアノだってまだ返却は可能だと思うし、お母さんにも上手く言っておくから問題はない」
 ――そこまでで言葉が途絶えた。
 ティアナの瞳に吸い込まれて、消えてしまった。睨んでいるわけでもない、哀しそうでもない。彼女は怒っている。私にとっては理不尽すぎる彼女の怒りを受け、気付けば何て言おうと思っていたか忘れていた。
 ティアナが私の腕をとる。強く握られ、私は痛みに表情を歪めた。
「あたしはそう簡単に、人の事を好きになったり嫌いになったりしません。前にも言ったでしょう。聞いてなかったんですか。だいたい苛々するのと嫌いなのとは別です。好きだから、気にしているから苛々するんです。嫌いだったらその人をあたしは見ようともしないし、自分の世界からその人の事を除外しますよ」
 彼女はその澄んだ瞳に私だけを映していた。
 好きだと彼女が言う。 どこまでも透通る瞳に見詰められ、一度視線を合わせてしまえば離せなくなる。
「好きです。大好きです。……だから悔しいんです。なのはさんが好きだった人のことを忘れていないのが。今も想っていることが悔しいんです。あたしはなのはさんみたいに割り切れないから、そういう我が侭を捨てられない。引き留めるべきだと言ったのは、そうすることでなのはさんの心の中に住むその人が、少しでも薄れると思ったからです。それは過去のことですけど、やっぱり考えずにはいられなかった」
 そう言ってティアナは腕を解放する。掴まれた部分だけ赤くなっていた。私はその部分に手をあてがうと、ティアナの顔に目を向ける。彼女の背には、既に沈んでしまった太陽の残照と、追うことを諦めた雲が所在なく漂っている。その横に、薄らと月が見える。一つだけの月だった。
「それで。ティアナはどうしたいの?」
 私は肺に滞る息を吐き出す。
「なのはさんは、わかりませんか」
 彼女の問いには答えなかった。彼女もまた、特に返答を期待しているわけようではなかった。目が言っている。そのことはおそらく彼女の中で決定されていて、私は抵抗できないのだと。
 故にそれは質問ではなく、ただの確認。
 彼女は深く息を吸い、つまりと言った。
「あたしはなのはさんをここで抱きたいんですよ。あなたの中にあるその人の記憶を、塗り替えてしまいたい」
 最初からそう言ってくれればよかったのに。
 ティアナに唇を塞がれながら私は思う。半ば強引に奪われてもそこに憤りなどなかった。そのことを私も望んでいたのだと思い知らされた。
 口内を舌で激しく嬲られる。舌はすぐに絡めとられ、きつく吸われた。早々に私のマフラーを取ったティアナに数分程口腔が犯されたあと、服の中に手が侵入してくる。ひやりとした感覚にはじめは体を強張らせていたが、彼女の五指はすぐに肌になじみ、胸から熱が広がっていった。その間もキスは続いていたが、彼女はやがて舌を乳房の方に持っていき、唇をすぼめて吸ったり、柔らかく噛んだ。そして下腹部に手が当てられる。スカートを捲りあげられ、下着の上から何度も何度も指を上下させた。
 熱い。直に触ってほしい。
 そんな気持ちのまま、乳房に口づけているティアナを見る。目は多分潤んでしまっていた。私の視線に気づいた彼女は薄く微笑み、下着をずらした。ティアナが自身の熱く濡れた部分に指を触れた瞬間、零れてくるものを感じたが、当然止められるはずもないし、また思考の多くは彼女によって削り取られてしまっている。
 次第と激しくなる行為に、私は彼女に玩弄されている気分になる。実際にはその反対だ。彼女がしているこれは、私の事を大事に思ってくれているからこそのものだということ。大丈夫、分かっているよ。でも、じゃあこれはきっと、私が、私の中にいるアリサちゃんに手を伸ばしているからなんだ――。
 私は泣いていた。涙をこぼしながら、ふとティアナの肩越しに見た空は、宵の色に塗られていた。空が彼方に霞んでいく。
 これほど暗くなるまで屋上にいたことはなかった。ここに通っていた時は、いつも太陽が山の谷間に沈んだのを合図に学校を出ていた。だけど今はすっかりと暗くなってしまっていた。星こそでていないが、月の輪郭まではっきりと見える。
 もう違うんだ、と感じた。違う世界。アリサちゃんのいない、世界。
 私は彼女の背に腕を回した。お腹の下が熱くなっていけばいくほど、胸が苦しくなった。鈍い痛みすら感じて、彼女の体を抱き寄せた。突然の行動にも彼女は慌てることなく、すぐに意図を汲みとってくれる。大丈夫だと言う代わりに、優しく唇を重ねてくれる。そして頬を伝い、耳の方にまで流れていっていた涙を、舌ですくってくれた。
 なのはさん、と彼女が言う。なのはさん、そう彼女が私の名前を呼ぶ度に、空ではない何かが塗り替えられていくような気がした。悲しくて新しい涙が溢れ、その度にティアナは舌で拭ってくれる。頬や目の畔だけではない、彼女は目玉さえ転がすようそっと舌で撫でる。
 ティアナは優しい。これは意識を取り戻した後に気付いたことだけど、私の背が傷つかないよう、彼女が上に着ていたパーカーを敷いてくれていた。白い服で汚れが目立つのにも構わず、ティアナはそうしてくれていた。私が気付いても、ティアナは服を軽く叩いて汚れを落とし、私の頭に手を置いただけだった。
 何も言わない。陽が沈む前、あれだけ雄弁に話していたのに、こういった時にティアナは無口になる。冗談さえ口にしない。私も無理に言葉を引き出す必要はないと思っていた。ただそれでも肩を抱くティアナの手から、彼女が何を言いたいのか忖度しようとしてみていたのだが、途中で思考するのが億劫になって止めた。
 それから私たちは何となく抱き合っていた。お互いの体温を感じているのが気持ち良くて、髪や頬などを触り合ったり戯れたりしていた。そうして、自分の中に蠢く気持ちに気付くまいと必死に目を瞑っていた。
 ティアナがその手をはたと止める。私もそれに倣い、ティアナを見上げた。
「桃子さん、心配しているでしょうか」とティアナが言った。
「どうかなあ」
 想像して少し青ざめる。ただ一方で頭が働かず、危機感があまり湧いてこなかった。もしかしたら心配しているかもしれないけど、大丈夫な気もする――そう楽観することにした。身体は気だるさに圧されていたし、もうしばらくはティアナとこうして居たかった。
 漆黒の夜天には星が幾つか散らばっている。明滅する星々をかき分けてひときわ目を惹くのは、月だった。月は空に見事な円を描き、強くはないが心を惹きつける白い光を降らせていた。実際に月が輝いているわけではないと知っていても、このどこか幻想的な風景の中にいるとそんなことは些細なことのように思えてくる。ただ明るいだけではない、悲しく美しい光の慈雨が、私に、そして隣にいる彼女の髪や頬に降り注いでいる。
 私はその光景を見て思い直した。最も幻想的なのは、彼女の存在なのではないかと。
 彼女はいつか、そのまま月の光の中に溶けて消えてしまいそうに見えた。たとえ錯覚だとしても、私の心に微かな恐怖が宿る。が、その恐怖はすぐに消えていく。
 大丈夫、ティアナは言った。好きだ、と。人の心ほど移ろいやすいものはないのに、彼女がそう断言したのだ。それならば私は信じるしかない。私には他に信じるものがない
「ところで今日、お店から電話がかかってきたんですけどね」
 ぼんやりとティアナが言った。
 私は空に手を伸ばしていた。指の谷間から月明かりが差し込んでくる。淡い光だったけど、私は何となく目を細めていた。
「今週末にピアノが届きますって」
「そうなんだ、楽しみだね」
 そうだ。こちらに戻ってきて、まずピアノを探したんだ。私は行かなかったが、ティアナと連れ添って行った母が話をしてくれた。
 それほどスペースを取らないアップライトピアノを、ティアナは選んだ。半額は母が、もう半額はティアナが支払った。母が支払ったお金も、適当なバーを見つけて働くなどして、徐々に返していくとティアナは言っていた。私は母から話を聞いたのちティアナに、どうしてそんな大金を持っていたのかと訊いた。カタログを見せてもらうと、ピアノはおよそ六十万もする。
 ティアナは少し躊躇ってから、バーのマスターが、と教えてくれた。どうやら私が扉を閉めた後、彼女と二人との間でやり取りがあったらしい。きっと私にはわからない何かが、彼女たちの間にはあるのだろう。
「ねえティアナ。届いたらまた、あの曲を聴かせてほしいな」
 『月の光』、とティアナが言った。私は肯く。
「あたしなんかの演奏でよければ、いつでも弾きます」
「私はティアナの音が凄く好き。だから楽しみにしてるよ」
 黒い四足の椅子に腰掛け、白い鍵盤に指を添えるティアナの姿を想像する。
 額縁に収め、翠屋の壁に飾るだけで、店が一層華やぐことだろう。いや、実際に写真に撮り、飾るのもいいかもしれない。
 彼女の綺麗な指が実際に動く所を、私はまだ一度も見た事がなかった。
「ところでいつになったら帰ります?」
 ティアナが言う。彼女の声はどこかぼんやりとしていた。そのまま空に上がり、雲に紛れていく。
 私は彼女の手を求めた。でも見つからなかった。私は手探りで彼女の手に触れようとしていただけで、視覚で見つけようとしなかった。だが代わりにティアナが私の手を見つけてくれた。春先の冷たい風に曝されて冷たくなった手が、彼女の暖かな手に包まれる。そのまま頭を抱きかかえられ、私は大人しく捕まる。
 隠れる場所なんてどこにもありはしない。蓋は開けられていた。
 それならば私は、匣の外に出て生きていかなければならない。そこでティアナの手を見失わないように生きるしかない。しかし不安はなかった。元々、不安というはっきりとした形はどこにもなかったのだ。誤魔化すだけ誤魔化して逃げ隠れしていた私の中に、そんな明確なものがあるはずがない。
 匣の中だろうが外だろうが、私が見える世界にさほどの違いはないのだろう。
 結局“私のどこにも何もなかった”のだ。
「そうだね、いつ帰ろうか」
 私は再び空っぽに戻っただけ。でもその空虚は、これからティアナが少しずつ埋めてくれる。
 ティアナの細い腰に腕を回した。ぎゅっと子供のように抱き付いてみせると、彼女は私の頭に鼻先を埋めてキスをした。
 ずっと長い時間、私たちはそうしていた。その間中、頭の中ではあのピアノバーで聴いた『月の光』が繰り返し流されていた。美しく悲しい音楽が押し寄せてくる。私はその奔流にのまれないよう、彼女の腰に必死でしがみついていた。
 この手が離れた時どこへ流れていくのか、私には見当もつかない。



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魔法少女リリカルなのは二次創作物、主に小説を扱っています。
このブログ内で使用している文及び画像の転載は、例外なくご遠慮下さい。

◇小説の傾向
なのはが絡んでいる百合、修羅場が多め。
なのはさんをめためたに愛し、いじめていきます。

◇リンクについて
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