空を駆け抜ける無口な星に、あの人を見た。
2008年
05月
26日
(月)
追憶の色に埋もれて the first volume
桜の花びらが弁当箱の中に落ちてきた。枝から離れたばかりの花びらは地面に敷き詰められているものと違って痛んでおらず、綺麗な薄紅色をしていいる。自分の魔法光の色だ。私は知らず、口元から微笑が零れる。
「なのはママ?」
賑わいの中、愛しい我が子が首をかしげながらどうしたのと尋ねる。ヴィヴィオは私の前で足を崩して座っている。私は出汁巻き玉子の上にあった桜の花びらを指で拾い上げて見せた。母と子の間にひとときの笑顔が交わされ、場はより和んでいく。近くで二人の少女が、それらを見つめている。
木の傍らにある池に、鳥が訪れる。足休めをし、白い羽をした鳥はすぐに去っていく。
空の色は清涼な青で満たされていた。薄く広がる雲もそれを邪魔しようとしない。花見日和の、いい天気だった。
何年振りかの花見を提案したのはヴィータちゃんだった。この家にいる三人(つまりヴィータちゃんとヴィヴィオと私)で花見に行こう、と誘ってくれたのだ。私は仕事もあったし渋っていたのだが、ヴィータちゃんに強く押されて行くことになった。何よりヴィヴィオが、花見という行事の内容を聞かせると行きたそうにしていたのだった。
機動六課での最後の模擬戦の舞台は、桜の咲く広場だった。あれから桜を目にする機会はなかったが、ヴィヴィオの中で印象に残っていたのだろう。花見の誘いに頷けば、ヴィヴィオは満面の笑みで喜んだ。
ただ誘ってくれたヴィータちゃん本人はいけなくなった。ちょうど同じ時期に八神家のみんなで花見に行くことになったのだ。どうせなら皆一緒に行けばいいのだろうが、スケジュールを考えるとそうはいかない。私以上に多忙なはやてちゃんと、守護騎士の皆の休みがそろうなんてことはまずないのだ。それに花見ができる時期は短い。それなら私はヴィータちゃんに、そちらを優先してほしかった。好きな人の大切な家族だから。
ヴィータちゃんと同じ家で暮らすようになったのは約二年前のことだ。彼女は機動六課が解散された後、ミッドチルダの首都クラナガンにある家ではやてちゃん達と一緒に暮らしていた。しかしヴィータちゃんが私の所属と同じ戦技教導隊に入ってからは、一緒に暮らすようになった。ヴィヴィオと私が住む家で。
ヴィータちゃんとのそうした経緯の間に、人が騒ぐようなロマンチックなやりとりはなかった。ささやかな言葉と体の触れ合いだけがあった。
彼女とキスをしたのも体を重ねたのも、その日が初めてではなかった。
ヴィータちゃんが家に越してくることが決まった日の出来事は、艶めかしくも綺麗でもない、確かな現実味だけを帯びたものだった。私は想いがつながるということの心地良さを再認識した。ふとすれば戻れなくなりそうなくらい、ヴィータちゃんと心を交わすことは気持ちよかった。心だけではない、体だってそうだ。彼女の小さな体躯を抱き締めたとき、このままずっと動けなくなってしまってもいいと思った。もちろん実際に固まってしまえば困るに違いなかったけれど。
同じ家に住めば、その後訪れる別れの時間はもう来ない。暇を見つけて会うことをしなくても、出張がない限り同じベッドで眠り、同じ朝を迎えることができる。
私とヴィータちゃんの間にヴィヴィオを挟んで、恋人どころか夫婦みたいにして毎晩眠っている。
一度家に来たはやてちゃんが、母と子供二人みたいやなあと口を滑らせたことがあった。ヴィータちゃんが顔を真っ赤にして、それでも怒るに怒れないといった微妙な表情は、悪いとは思っても笑いが漏れた。がっくりと項垂れるヴィータちゃんの頭を撫でて、行き場のなかった怒りをぶつけられたのも、多分いい思い出だ。
それから一年、二年と過ぎて行った。季節が繰り返し、飽きもせず巡っていく。景色も合わせて変化していく。夏には青葉が茂り、秋には熟れた葉が街に彩りを添え、冬は白い雪が地面をしばし覆った。
ただ春は味気なかった。
ミッドチルダに桜はない。あるのは機動六課の元宿舎にある訓練場のあの場所と、ごく一部の地域のみ。海鳴にいたときとは違い、桜を見るという目的がなければ見ることのかなわない産物だ。今日来ているこの場所は、そういう場所だった。
しかし桜のある限られた場所にも関わらず、人は少ない。桜が不人気というよりは、存在をまだよく知られていないためだった。故にほぼ身内の貸切状態となっているのだけど、はやてちゃんはそれを楽しんでいるようだった。秘密基地の感覚なのだろう……今、私がまさにそんな気分だった。
私が普段ヴィヴィオと過ごせる時間はそう多くない。だから今日は私達にとって貴重な時間でもある。貴重な時間を、こうした綺麗な桜が舞う中で過ごせるというのは、心躍るものだった。
だってこんなにも天気がいい。
見上げた桜は、高く遠くに枝を伸ばしていた。私はかの枝や花弁からのぞく青に目を細め、静かに呼吸をする。落ちついた風が服をはためかせ、通り抜けていった。
そんな中で声が響く。声は二つ重なっている。重なる少女の声が、鼓膜を突き抜けていく。
ティアナとスバルは重箱を並べるだけ並べたあとで、互いの体を掴み合っていた。レジャーシートを敷いた後、私とヴィヴィオが腰をおろしても二人は未だ席につかず、何かもめているようだった。初めはただ無言で見つめ合っていたようなのに、ティアナがスバルの首元を掴みあげてから様子は激変した。割と大人しいスバルが抵抗したからだ。
しかし私は止めなかった。一見喧嘩にも見えるそのやり取りは、日常茶飯事的に起こる戯れ合いだと知っている。久し振りに見て一瞬驚きはしたが、六課にいた頃はよく目にしていた。これは親しい友人が、お互いの情を確かめ合っているだけ。第三者の介入など許されない。証拠に、二人がしていること対して顔つきは厳しくはない。
二人のやりとりは、私に六課にいた頃を思い起こさせる。スバルとティアナが顔を合わせるのは今日が久し振りだと聞いている。あの頃よりもはしゃいでいるように見えるのは、そのせいかもしれなかった。
お腹が空けばそのうちこちらに来るだろうとみて、私はヴィヴィオと向かい座ることにした。黒い重箱を開く。昨晩にできるだけ仕込み、朝詰めてきたものが見えると、ヴィヴィオは、おお、と唸るような歓声を上げる。
「すごく美味しそうだよ、なのはママ」
愛娘にそんなことを言われれば、時間をかけて頑張った甲斐があるというものだ。私は思わず顔を綻ばせながらも、もう少し待ってね、と頭を撫でた。
「あの二人が落ち着いたら、一緒に食べようか」
「うん、でも早く食べたい」
「そっか。じゃあヴィヴィオ、ちょっと呼んできてくれるかな。流石にこのまま暴れられると埃がお弁当箱のなかに入っちゃうかもしれないからね」
私がそう言うとヴィヴィオは勢いよく立ちあがり、「スバルお姉ちゃん、ティアナお姉ちゃん」と彼女たちの名前を呼んだ。二人は弾かれたようにヴィヴィオを振り返る。
「なのはママがそろそろ食べよーって言ってるの。だからこっちに来てはやく食べよう。なのはママのお弁当、すごく美味しそうだから、お姉ちゃん達も見たらきっと食べたくなるよ」
直後に、スバルの活気に溢れた声が聞こえた。
「すぐ行きます!」
「ヴィヴィオ、伝えてくれてありがとう」
ティアナが頭を撫でる。本当のお姉さんみたいで、私はなんだか微笑ましく思っていた。
私が彼女達とこうしているのはいつ振りの事だろう。顔を見て軽い挨拶を交わすことはあっても、長い間話す時間はもうずっと持てていなかった。三年の歳月が過ぎ去っていた。
ティアナに会ったのは偶然だった。
二週間ほど前の事だ。私は本局にちょっとした用事ができ、ついでにフェイトちゃんの顔を見ておきたくて、彼女が普段仕事している個室に向かった。彼女がその部屋にとどまっていることは少ない。だから私はあらかじめ連絡を取り、今日そこに在席していることを確認してから向かったはずだった。
しかしそこにいたのはフェイトちゃんではなく、補佐であるティアナとシャーリーだった。シャーリーは私の顔を見つけると駆け寄ってき、レイジングハートと私の様子を問うた。真っ先にデバイスの名前が挙がるところは彼女らしい。
どうやらフェイトちゃんは急用で出かけているらしい。謝るシャーリーに首を振って、気にしないでと断った。
「もうしばらくで戻ってくると思いますよ。時間がありましたらお待ちになっては?」
シャーリーが告げる。私が頷くとシャーリーはにこりと笑い、部屋を出て行く。それほど広くない部屋に、私とティアナだけが残った。
視線をずらすと、デスクワークをしていたティアナと目が合った。仕事に真面目な彼女とどうして目が合ってしまったのか、私は気付かないほどもう鈍くはなかった。
「なのはさん」
ティアナの艶のある唇が私の名前をかたどった。瞬間、一度だけ心臓が大きく跳ねる。
私は、ティアナ、と彼女の名前を呼ぶ。どんな気持ちを込めて呼べばいいのか迷いながらだったが、どうにか音にすることができた。ぎこちなく微笑を浮かべるティアナに、私は必然的に機動六課解散の前日のことを思い出していた。
その晩は自らに課した訓練をやめて、機動六課宿舎で過ごす最後の夜を噛み締めていた。いろんなことがあったこの一年を振り返っていた。ミッドに越してからは一番濃かった一年のような気もした。
今日は早く寝ろよ、というヴィータちゃんの言葉通り、私は最後の仕事を終えるとヴィヴィオと一緒にお風呂に入り、それからキャラメルミルクをじっくり時間をかけて飲んだ。歯を磨きベッドに入ってからも、ヴィヴィオの小さな手を握ったまま、いろんな話をした。フェイトちゃんはいなかった。しばらく離れることになるからと、エリオとキャロの部屋で寝ることにしたようだった。大切に思う子と一緒に眠りたいのだろう。私とヴィヴィオのように。
ヴィヴィオが欠伸をもらしたのを合図に、私たちは眠ることにした。その前にヴィヴィオはトイレに、私は水を飲みに立ち上がる。来客を告げる音が鳴ったのは、ちょうどその時だ。
ティアナの突然の訪問に私は意表を突かれる。訪問自体がではなく、相手がティアナだということに私は驚いた。頬を強張らせたティアナを立たせたままというのも悪いので部屋に招いたが、頭の中ではティアナがここにきた理由を模索していた。だが当然分かるはずもない。進路も決まっている。強くもなった。……他に何があるというのか、思い当たることは何もなかったのだ。
それでも彼女なりの悩みがきっとあるに違いない。目をこするヴィヴィオをベッドに寝かせると、部屋を薄暗くしてから私はソファに腰を下ろした。壁伝いに設置されてい山葵色のソファは長い。二人どころか五人だって座れるだろう。それなのにティアナは立ちつくしたままだった。
「ごめんね、部屋を暗くして」
私が言うと、ティアナは首を横に振った。
「ヴィヴィオの睡眠を妨げるのは、あたしも望みませんから」
「ありがとう。ところでティアナは座らないの?」
「いえ、平気ですから」
「そうじゃなくて、首が苦しいなって」
「ああ。ええと、そういうことなら」
ようやくソファに座ってくれたティアナに、私は笑みを投げかける。だがティアナはその笑みに一つだけ頷くとすぐに視線を背けた。
彼女が座った場所は私からずっと離れていた。一年間向き合ってきたと思っていたけど、まだ距離はこうして離れたままなのだろうか。寂しくは思ったが仕方ないことと割り切って顔を正面に向けた。正面にある数段の段差を上ったところに、ベッドがあり、そこでヴィヴィオが眠っている。部屋には静寂が降り積もっていった。
「スバルはどうしてる。もう寝てる?」
「ええ。今日は早めに寝るって。……明日で終わりですね」
話しの切り口にするつもりでスバルの事を尋ねたが、ティアナは俯いた。やはり何か不安があるのかもしれない。私はティアナにもっと明るい顔をしてほしく、声色を真剣なものにあらためた。
「強くなったよ、ティアナは」
俯いたティアナが顔を上げてくれることを願いながら、私は言う。
「きっとフェイト執務官のところに行っても、ティアナなら上手くやっていけると思う。だから心配することなんて何もないし、悩むことなんて――」
「そうじゃない」
私の言葉を、ティアナが遮る。
「そうじゃないんです。あたしはあなたの教導を信じています。一年間ずっとあたしたちのことを考えてくれて、強くなるために教えてくれたことを、誰よりも信じています。だから、そういうことでここに来たんじゃありません」
ティアナが立ち上がる。
停滞した空気はそのまま、肌に冷たく張り付いている。春が近いといっても、まだまだ夜は冷え込む。薄い寝間着で座っているのは寒かった。
寒いと思った心を読まれたわけではなかったと思う。冷たくなりかけていた手が包まれたのは、それとは無関係だ。でもティアナの手はその時どんなものよりも暖かかった。炬燵があったとして、その中に手を入れるよりもずっと。
「ごめんなさい」
手に手が重ねられ、身体を引き寄せられる。
ごめんなさい、と謝る彼女は、それでも寄せる力を抜いてくれなかった。強い力だった。今日部屋を別れる前、私がヴィータちゃんにそうしたように。
機動六課を解散してしまえばこんなにも近くにいられることはないかもしれないと考えると、私は廊下だというのにヴィータちゃんを抱き締めてしまった。私とヴィータちゃんはその時すでに恋仲にあった。誰に言わなくても、おそらく六課にいた全員が知っていたことだろう。
ヴィータちゃんを抱き締めたのは、戦技教導隊に誘ってはみたが受けてくれるとは限らない、そんな不安に急かされての事だった。そうすれば会うことも少なくなるかもしれない。この一年が異常だったと思えるほどに、すれ違う日々が訪れるのかもしれない。
「なのは、おい、どうしたんだよ突然。こんなところで人目が」
「ごめんね、ヴィータちゃん。ごめん」
「なのは、……ああもう。何なんだよ一体」
ヴィータちゃんはそれでも、いつものように離せとは言わないでいてくれた。抱き返してくれなくても、それで十分だった。別れ際に、「本当に大丈夫か?」と聞いてくれたヴィータちゃんは、やはり優しいんだと思うから。私はせめてそれ以上心配させないように、しっかりと肯いた。
「ならいい。今日はフェイトもいないんだろ、早く寝ろよ」
ヴィータちゃんの顔を赤くしながらの優しい言葉は、まだ胸に残っている。残ったまま、今ティアナに抱き締められている。
私は動けなかった。強い想いが力になって、私の腕をぎゅっと縛り上げていた。だけど痛いのは腕ではなく胸だ。
「明日になれば、あなたと離れてしまう。あたしはそれが辛い。もちろんなのはさんがヴィータ副隊長と付き合われていることは知っています。だけど最後だと思うと、体が言うことを聞いてくれない。離れようとしてくれないんです。これから先、なのはさんとこうして二人で会う事なんてきっとないから」
私は、そんなことないよ、と言った。だけどその言葉が、砂漠に降らす雨のように地面を潤すことなどできはしない、と直感的に理解していた。ティアナは酷く渇いていた。私という水を求めていたのだ。
だが私は、彼女の渇きを癒せるほどの水を与えるわけにはいかなかった。それは限られたものだから。それなら、私が与えることができる人は一人しか居なかった。少なくともその時は、そう思っていた。
ティアナの肩に手を乗せて、ゆっくりと体を離す。彼女の朱の髪が、濡れた瞳にかかっている。この綺麗な顔を曇らせているのは自分、声もあげずに泣かせたのも自分……。
「嬉しいよ、ティアナ。ティアナの真っ直ぐな気持ちが、私は凄く嬉しい」
そんな自分に出来ることといえば、彼女の頬を流れる涙を拭い、無駄なことだと分かっていても、胸を走る一条の水脈から、すくいとった水をこぼすことだった。
唇が近付く。ティアナからか、あるいは私からか。曖昧な認識の中での口づけは甘く、沈んでいく。唇が離れると身体の力が抜け、私はソファーに背を凭れた。ティアナが膝をソファーの上に乗せて、私の体を覆う。体重がかけられて、また唇が重なる。胸の中では脈動が静かに打っている。
しかしそれより先は何もなかった。何もない。身体は重なっても、心はどこかすれ違っていた。
ティアナがゆっくりと私から離れる。かけられていた重量がなくなり、身体がふっと軽くなる。
「ごめんね、私ができるのはこれだけなんだ」
言わずとも、私のそうした気持ちにティアナは気付いていた。言葉にしたのは区切りにするためだった。だからそれが終わりのしるし。
「大丈夫、最後にはならない。私たちはまた会えるよ」
瞳を震わせるティアナの頬を包んで、私はそう告げる。
「生きている限り、選択することができる。綺麗事だなんて思わない。本当に、会いたいと思えば会うことはできる」
「なのはさん、でも」
「他の何も信じられないなら、私を信じて。……できる?」
ティアナはしばしの空白のあとで、はい、と肯いた。
「ありがとう。今日は一緒に眠ろう。そして明日を迎えるの。別れの悲しみに満ちたものじゃない、ティアナの胸にある誰にも負けない夢を叶えるための、一進目なんだよ」
ティアナの肩を抱き、数段の段差を上ってベッドに潜った。ティアナと私とでヴィヴィオを挟む形になる。少しの緊張感を保ちながらも瞼を閉じた。眠りに落ち、再び目が覚めたとき、ティアナは私がよく知るティアナでいてくれることを願った。願いはそのまま、次の日の朝にかなえられる。
ティアナは悲痛なほど優しかったのだ。
⇒the second volume (二話)



アリサ×なのは