空さえ貴方の前を覆わない―中編
『空さえ貴方の前を覆わない』 中編です。
回想がおわり冒頭へ。ティアナが海鳴へと降り立つ。
話の途中にあるオレンジ風味のチョコレートケーキは、なのはがティアナを思い出して選んだもの。
その時愛されていたことに、ティアナはどうして気付かなかった。
よろしければ続きよりどうぞ。
空さえ貴方の前を覆わない 中編
白い鳥が青い空を切り抜けるよう、頭上を飛び去って行った。高くへと舞う鳥を目で追いかければ、向こう側の白い陽が目に痛く突き刺さる。強すぎるくらいの光に、一度瞼を落とした。それからゆっくりと持ち上げ再び見上げた空に鳥はなく、平然とした空気が流れているのみだ。
耳を通り抜けるのは心地よい音量の人の声。騒がしくもなく、また静まり返ってもいない。田舎過ぎず都会過ぎず、ここはそんな場所だった。
たった一人の人を求めて訪れたこの地の名前は、なんだったか。
微か遠くで聞こえる波の音、潮風が鼻先をかすめていく。
海鳴と、ポケットにおさまったクロスミラージュがそう答えてくれる。
ここは地球の日本にある海鳴市、なのはさんの故郷。
私はしばらく街を歩くことにする。
あの人が住んでいた場所、今住んでいる街並みを感じてみたかった。それに手がかりもなしに探すのは効率が悪すぎるし、時間は有限ではない。それに……。
私は今回のことで多忙の執務を休むわけにはいかなかった。一日だけでも捜査や情報統制、指示が通らないことなど様々な弊害が起こってくる。もちろんそれらのしわ寄せは周りに訪れるだろう。自分だけがあとから休んだ分を取り戻せばいいというわけにはいかない。そういった責務を放棄するほど落ちぶれてはいないつもりだ。してしまえば兄さえ侮辱することになってしまうような気がした。
ではなぜあの人を探しにこの世界にやってくることができたか。
信頼する部下が、とか。フェイトさんのような優しい上司が、なんて都合のいい話はなかった。
でも私はここにいる。少しだけ危険な仕事を請け負って解決することで、対価に一日だけ休暇をもらえるたのだ。もちろん代わりの人材を派遣してくれるという条件つきだ。
これで仕事に支障は出ない。
ならばその任務でほんの少し腕に傷を負ったとして、どれほどのものか。治癒魔法は使えないが、傷はそのうち塞がる。包帯を巻き、痛みさえこらえれば何の犠牲もなく堂々と会いに来られる。袖のある服さえ着れば、血が滲んでいたとしても見られることはない。
何よりも仕事をさぼってきました、なんてあの人に言うには格好が悪すぎるから。
いくつかの街並みを通り過ぎ、割と賑やかな喫茶店が見えてきた。店内では制服を着た学生たちが多く席につき、ケーキなどのデザートを口にしている。とても美味しそうに、幸せそうに頬張っていた。
そういえばしばらくお菓子のような甘いものも食べていなかったと私は思いついて、店によってみようと考える。見上げた看板に書かれた文字は……、翠屋?
記憶の弁にかすかに引っかかる。が、はっきりとはしない。だがどこかで必ず聞いたことのある言葉だった。思い出せないことほど気持ち悪いものもなく、何度か眉間を揉んでみた。そしてそれもキーワードを並べてみればやがて判明した。
翠屋、ケーキ、喫茶店、海鳴、なのはさんの故郷――。
そこで私は声をかけられた。声の聞こえた方に振り向くと、長い髪の女性が喫茶店の入口付近に立っていた。自分の周りには誰もいないし、明らかに視線は私の方に向けられている。
怪訝な顔で見返していると、彼女は私の方に歩み寄ってきた。
「なのはちゃんの教え子さん、だったよね。一度会ったことがあると思うんだけど覚えてないかな」
何も答えずにいると、彼女は遅れて月村すずかと名乗った。
毛先の方だけに少しウェーブのかかった髪が、ぺこりとお辞儀をしたときに揺れた。霞色に、そういえばと思い起こす。なのはさんの友人だ。とくに自己主張をしたわけでなく、淑やかで穏やかで、ゆえに脳の隅に記憶していた。彼女はどこまでも大人の女性であり、落ち着いていた。女性としては理想だった。だからといってそれ以降思い出すことはなかったけれど。
今ならなのはさんと仲のいい人ということで気にしたかもしれない。だがあの頃はなのはさんについて特別いい印象は持っていなかった。
確かに強かった。導いていくだけの力はあるだろう、リミッターをかけられてなおあの強さはスバルが憧れるのもわかった。だが才能があるだけの、努力を必要としない人間と決めつけていた。見事に打ち破られるまで、興味もわかなかった。
一度あの人に言ったら笑われた。自分の見る目のなさと、偏見の強さに後悔しながらの告白だったから、さらに落ち込んだが、あの人は馬鹿にするように笑ったのではなく、吹き飛ばすように笑った。
気にしなくていいよ、とは言わない。だけど、駄目じゃない、とも言わなかった。
「努力を必要としない魔導師なんていないんだよ」と。
「だけど興味がなかった、かあ。それはちょっとショックかも。わたしはティアナのこと最初から気になってたんだけどな」
「え?」
「ティアナ、綺麗だったから」
「え!」
「にゃはは、ティアナ可愛い。ぎゅーってしていい?」
「じょ、冗談ですか」
「えー、嫌なの?」
「そんなことはないですけど」
「そうかなあ。だって興味なかったんだもんね、そんな人にぎゅーってされても困るよねえ」
「い、今は違いますよ、もちろん。興味どころか気になって気になって仕方なくて、貴方のことならなんでも知りたいくらいで……」
「それ、ほんとう?」
首を傾げるなのはさんが可愛くて可愛くて、胸が不規則に跳ねて。暴走しないよう深呼吸した。
熱くなった息を吐き出して、冷たい空気を胸に取り込む。それでもどきどきは収まらない。きっとこの人がいる限り、私はずっとどきどきしている。
「だから、もう」
抱き締められる前に、私がその人を抱き締めた。
「あたしの前で以外、こんな顔しちゃだめですよ」
――そんなやりとりが、昔あった。そう昔だ。今そんなことはできないし、会う以前に話すことさえない。だから会いに来たのだ。別に前みたいに戻りたいとは望まない。ただ、会いたくて。
スバルに背中を押され、なのはさんの故郷にやってきた。そこでにあの人の友人である月村すずかに出会った。
「あのね、ティアナちゃん、だったよね」
なぜか彼女は私のことを覚えていて、声をかけてきたのだ。本当にどうしてだろう。
だが疑問を最初にぶつけてきたのは彼女だった。
「どうしてここへ?」
「……どうしてあなたは、あたしのことを知っているんですか?」
ほぼ初対面の人に答えるにはあまりに個人的なことでためらい、つい問い返してしまった。任務で、とか適当に言っておけばよかったのだろうけど、言い訳さえ思い浮かばなかった。
「以前会ったといっても何年も前に、しかも一度きりでしょう」
「会ったのはたしかに一度だけど、なのはちゃんが向こうにいた頃は連絡をくれたり、たまに写真とか送ってくれたの。そのときによくあなたの名前がでた。よっぽど気に入ってたのね、教え子のことは四人ともよく話してくれたけど、ティアナが、というのが一番多かった。特に大きな事件が終わったらしい頃から増えてきたかな。ちょっと妬けちゃうくらい楽しそうに話してた。でも一番妬いてたのは私じゃなくてもう一人の友人だけど」
それは。
フェイトさんからきいた、幼馴染の。名前はなんていったか。
「アリサちゃん、昔からなのはちゃんのことが大好きだったんだ。ふふ、ずっと認めなかったけど顔や態度にでるから分かりやすかったなあ」
私もスバルに同じことを言われたことがあった。
「意志が強くて負けず嫌いで、でも優しくて。なのはちゃんのことを一番に思っていた子」
……私もそうだ。同じことを、やっぱりスバルに言われた。
自嘲に近い苦笑をこぼしかけて、彼女が言った次の言葉にはっと呑み込むことになった。
胸を一寸の狂いもなく貫く言葉で、静止することのない世界が時を止める。
「もしあなたがなのはちゃんに会いにきたのならやめてほしい」
深い藍の瞳の奥で、彼女が隠し持っていたであろう真摯な光の輝きがそっと姿を現した。
結局喫茶店には入らないまま、方向を転換することにした。夕暮れはまだだといっても太陽はとうに頭上を過ぎ、斜に位置している。それにあの喫茶店のケーキを私は食べたことがあった。
幾年も昔、私がまだ機動六課に所属していた頃の話。
なのはさんが実家から送ってもらったものを、差し入れていただいた。たしか食べたのはチョコレートとオレンジのケーキ。チョコの生地の間に、皮の向かれたミカンの房が挟まれ、さらにケーキ全体を包むようにチョコがかけられて、さらに上には生クリームが乗っている。添えられたハーブが仄かな香り彩りを添える。
見た目もよかったし甘さも適切だった。甘味と酸味が交互にやってき、それがまたよかった。
辛い訓練は時に甘いものを体に要求する。程よい甘さのケーキを胃に入れて、それから紅茶だ。紅茶も翠屋オリジナルのものだという。
なのはさんの入れてくれた紅茶を舌で味わいつくすと、ようやく息を吐くことができた。満足しながらカップをおいて息をついたとき、たまたま正面にいたなのはさんの顔が目に入る。あの人はまるで自分が作ったケーキを食べてもらったかのように嬉しそうに微笑んでいた。私は頬が赤くなっていくのを感じ、染まった顔を隠すように置いたカップに再び口をつけるしかなかった。
隣にいた相棒が何も指摘してこなかったのは彼女もケーキに夢中だったからだろう。あの人のあんな顔を私以外の誰も見てなくてよかった。もし見ていたらきっと心を射抜かれてしまう。そんなのは自分だけでいい。そして、あの人が微笑むのは私にだけでいい。
甘い甘いケーキが、紅茶に流されて喉を通った。
今はあの人が現在住んでいるという屋敷に向かう途中だった。
己のあまりあてにならない記憶とクロスミラージュを頼りに、なのはさんの実家へ行くと教えてくれた。なのはさんの家族は私のことを覚えてくれていたらしい。機動六課にいるときに送られたという写真を見せてくれ、人の良さそうな顔つきの女性は微笑む。温和そうで、しかしどこか意志の強そうなところがなのはさんに似ていた。同じ色の髪と瞳が一層その印象を強める。
会わないでと言われ、やめるような覚悟でこの世界に来ているわけではない。言ったのがなのはさんの友人で、なのはさんのことを想う一人であっても変わらない。
自分がしていることは多くの人に迷惑をかけるかもしれない。あの人が私のことを忘れていたとして、自分のことを思い出し、また辛い想いを古傷のように疼かせてしまうかもしれない。そばにいる相手だってそうだ。昔の恋人の存在など迷惑以外のなにものでもない。傷ついたなのはさんを癒したのは紛れもないその人。
月村すずかは言っていた。
「元気をなくしたなのはちゃんの傍に少しでもいようとして、下手な笑顔ならしなくていいといってあげたのはアリサちゃん。――そんな笑顔は自分を何よりも幸せにしないから、ならあたしは見れなくてもかまわない。なのはの笑顔は好きだけど、なのはを不幸にしてまで見るものじゃない。いつかあたしが本当の笑顔を引き出してみせる。そのためには涙も流していい。あたしといるときだけは、いくらでも泣いて良いから。いつか心から笑ってくれればそれでいいの――アリサちゃんはそう言っていた。私はその言葉を聞いた瞬間から、二人を見守ることにした。介入せず、じっと待っていた。なのはちゃんのことをここまで考えて理解し、受け止めることができるのはアリサちゃんだけだと思ったから。ねえ、あなたにそれができるかな。出来ないから、なのはちゃんはこちらに戻ってきたんじゃないの? 追い続けた夢を捨てて、受け入れてくれる人を手放しで求めて」
眼を伏せて、彼女は続ける。
「あなたはなのはちゃんを傷つけた。あなたがここに来るまでにどれだけ傷ついて考えたのかは知らないし知りようもないけど、その事実が消えることなんてないんだよ」
ただ言葉を受け止め何も返せない自分へ向けて、彼女は最後に言った。
「だから私は、あなたをなのはちゃんに会わせたくない。近づかないで」
そんな彼女に言えることは何もなく、私は無言で喫茶翠屋の前から離れた。
考えれば気が重くなる。最悪、誰からも望まれない再会が生みだされるだけかもしれないのだ。自分も相手も、周りの人も傷つけるような、そんなことがあってもいいのか。
何しにきたの?
そう言われるかもしれないと考えると怖くなった。あの人が冷たい目で私を見つめて言うことがあったなら、恐らく耐えられない。
けれど足は止まらずに進んでくれた。道端の塀の向こう側から犬が吠えて、スバルの言葉を思い出す。
「大丈夫、ティアならきっと、ね?」
家が見えてきた。家というにはあまりに大きい屋敷が。
私は出会いの意味を求めていた。どうして私があの人と出会わなければならなかったのか。偶然でなく必然ならば、そこに何の意味があったのか。幸せな時間を塗りつぶすほど傷つけあった。出会いを喜ぶより後悔の方が大きかった。
たしかにあの人は、才能のある人間も努力をするのだという当然のことを教えてくれ、偏見を拭い去ってくれたし、魔法戦を教えてくれた。強くしてくれた。それは生きて行くのに必要なことだったんだろう。六課での経験は執務官になるためになくてはならない糧だったんだろう。だけれどもそのことを踏まえても、やっぱり意味を見出だせない。
あの人に出会わなければ――。
どんなに虚しくて、昏い世界を生きることになっただろう――。
出口のない考えをさ迷う。やがて私は答えのでないまま、屋敷に辿り着いた。
答えなど最初からどこにも用意されていないのかもしれない。そして、求めることにも意味がない。今はただ、あの人に会ったときに言う言葉を探しながら玄関の呼び鈴を鳴らす。
出てきたのは執事らしき人だった。黒服に身を包み、白いシャツにタイをつけている。短い髪をぴしりと固め、身だしなみも乱れがない。雰囲気からも全く老いを感じさせなかった。白髪でなければ年をとっていることにさえ気付けなかっただろう。
私は彼に屋敷を訪ねた理由を説明した。ここに会いたい人がいる、自分はなのはさんに会いにきたのだと伝えた。彼はしばし考える素振りをした後、首を横に振った。
「たしかにここになのは様はいます。しかし今はいません」
「どういうことですか?」
「外出しているのですよ。奥様は散歩をよくされ、日が暮れるまでは外にお出かけになることが主なのです。ですから日中屋敷には滅多にいらっしゃいません」
……奥様。
「どこへ行ったかというのは分かりますか」
「いいえ、何もおっしゃられませんので。それに分かっていたとしてもあなた様にお教えすることはできません、申し訳ありませんが」
「そう、ですか」
「ランスターさんの訪問をお伝えすることはできますよ」
「いいえ、ありがとうございます」
「それでは」
私は彼に会釈をし、長い長い塀に沿ってきた道を戻る。落胆はなかった。それより他人の家からあの人が出てくるショックのほうが大きかっただろう。私は再びなのはさんを探すために歩き始める。
道を行き、草むらを横切り、町を歩いた。学校の門を通り過ぎ、神社の境内にも入った。そこにいた巫女と子狐に励まされて、私は再び町に降りる。病院も、コンサートホールも通った。だけどなのはさんがそんな所にいるはずもなく、喫茶店に舞い戻ってきた。もしかしたら来ているかもしれないと考えたからだが、なのはさんはいなかったしあの友人も既にいなくなっていた。
諦めるつもりはなかったが、日が暮れかけると気力も削がれてくる。探せば見つかると思った。会いたいという気持ちがあれば会えるのだと、わけもなく信じ切っていた。だがそれも日が暮れてしまうまで。空が明るいうちはあった望みも太陽とともに沈んでいった。
やがて私は海岸沿いを歩いていて、広い公園をみつける。空には赤みが差し始めていた。
木のそばにあるベンチからは海が見えた。歩き通しだった一日を思うと溜息が喉を突き上げてくる。あの人は見つからない。あとは完全に暗くなってから再びあの屋敷にいくしかなさそうだけど、会えるかどうかもわからない。
「だめ、なのかな」
不安が呟きとなって漏れこぼれる。
ふと二つ向こうのベンチの方から人の声が聞こえてきた。顔を向けてみると、たこ焼き売りの屋台が来ているようで、何人かが買い求めていた。そういえば美味しそうな香りをさせている。空腹であることも手伝って、私はポケットに入れた財布を取り出して立ち上がった。
当然ながら調査任務などで別世界に行く時は、その世界の貨幣が必要になることもある。お金がなくてもできることはあるが、お金がなければできないこともある。食事や寝泊りなどがそれに該当する。今回もこちらの世界に来る際に換金してきていた。だから困りはしないのだけど。
立ち上がって、屋台の向こう側にもベンチがあることを知った。ほとんどが空席だがそのうちのひとつに、人影があった。じっと見つめてみても身動きひとつしないから本当に人なのか自信がなくなってくる。誰かが置き忘れた荷物か、動物かとも。
だけどそれは人だった。呼吸しているのが疑わしいほど動かない、だけど確かに人である。それも、私の最も求めていた。
彼女は眼前にそびえる海を表情一つ変えずに見つめている。呼吸さえ忘れてしまったかのように、海を見つめることこそが唯一の使命であるかのように、じっと赤い太陽が海の中に溶けていく様子を眺めていた。
……なのはさん。
数年、記憶の中のものと全く変わらない横顔。赤い世界の中にあっても、世界がこの瞬間に終わろうとしていても揺るがないであろう美しさと、儚さを兼ね備えた人。私は彼女と一年、あるいは八か月間一緒にいた。彼女の、高町なのはという名前は私が生涯忘れることのないもの。
こんなところに居た――、なのはさん。
私は息を凝らし見ていた。声をかけるのも忘れて、もしかしたらぼうっとしていたのかもしれない。私の中の時間も周囲の時間が動いていることも、全部投げ捨ててしまっていた。
屋台の人に呼びかけられてようやく我に返る。そういえばたこ焼きを買いに屋台の前まで歩いて来ていたのだ。何度も声を掛けられていたのだろう、私がそれでも返さず呆けたままでいると、今さっきまで動かなかった人がこちらに気付いた。
おそらくその時、自分はあまりに間抜けな顔をしていたはずだ。
ティアナ、と呼びかけられて、私はあの時のようになにも答えられなかった。
「ティアナ?」じゃなくて「ティアナ」、と。数年の時さえ無関係に断定してくれるあの人に、驚きよりも喜びが上回った。彼女は私のことを覚えてくれている。六課の時とは違い自分は髪を下ろしていたし、顔つきも少しは変わったんじゃないかと思う。なのになのはさんは私を私だと気付いてくれた。私も、出会った瞬間になのはさんだと分かった。
「あたし、夢を叶えました。一人前の執務官になったんです」
なのはさんが微笑んだ瞬間、楽しい記憶や哀しい記憶、苦しい記憶もすべて赦し、解き放つことができた気がした。
⇒後編へ
回想がおわり冒頭へ。ティアナが海鳴へと降り立つ。
話の途中にあるオレンジ風味のチョコレートケーキは、なのはがティアナを思い出して選んだもの。
その時愛されていたことに、ティアナはどうして気付かなかった。
よろしければ続きよりどうぞ。
空さえ貴方の前を覆わない 中編
白い鳥が青い空を切り抜けるよう、頭上を飛び去って行った。高くへと舞う鳥を目で追いかければ、向こう側の白い陽が目に痛く突き刺さる。強すぎるくらいの光に、一度瞼を落とした。それからゆっくりと持ち上げ再び見上げた空に鳥はなく、平然とした空気が流れているのみだ。
耳を通り抜けるのは心地よい音量の人の声。騒がしくもなく、また静まり返ってもいない。田舎過ぎず都会過ぎず、ここはそんな場所だった。
たった一人の人を求めて訪れたこの地の名前は、なんだったか。
微か遠くで聞こえる波の音、潮風が鼻先をかすめていく。
海鳴と、ポケットにおさまったクロスミラージュがそう答えてくれる。
ここは地球の日本にある海鳴市、なのはさんの故郷。
私はしばらく街を歩くことにする。
あの人が住んでいた場所、今住んでいる街並みを感じてみたかった。それに手がかりもなしに探すのは効率が悪すぎるし、時間は有限ではない。それに……。
私は今回のことで多忙の執務を休むわけにはいかなかった。一日だけでも捜査や情報統制、指示が通らないことなど様々な弊害が起こってくる。もちろんそれらのしわ寄せは周りに訪れるだろう。自分だけがあとから休んだ分を取り戻せばいいというわけにはいかない。そういった責務を放棄するほど落ちぶれてはいないつもりだ。してしまえば兄さえ侮辱することになってしまうような気がした。
ではなぜあの人を探しにこの世界にやってくることができたか。
信頼する部下が、とか。フェイトさんのような優しい上司が、なんて都合のいい話はなかった。
でも私はここにいる。少しだけ危険な仕事を請け負って解決することで、対価に一日だけ休暇をもらえるたのだ。もちろん代わりの人材を派遣してくれるという条件つきだ。
これで仕事に支障は出ない。
ならばその任務でほんの少し腕に傷を負ったとして、どれほどのものか。治癒魔法は使えないが、傷はそのうち塞がる。包帯を巻き、痛みさえこらえれば何の犠牲もなく堂々と会いに来られる。袖のある服さえ着れば、血が滲んでいたとしても見られることはない。
何よりも仕事をさぼってきました、なんてあの人に言うには格好が悪すぎるから。
いくつかの街並みを通り過ぎ、割と賑やかな喫茶店が見えてきた。店内では制服を着た学生たちが多く席につき、ケーキなどのデザートを口にしている。とても美味しそうに、幸せそうに頬張っていた。
そういえばしばらくお菓子のような甘いものも食べていなかったと私は思いついて、店によってみようと考える。見上げた看板に書かれた文字は……、翠屋?
記憶の弁にかすかに引っかかる。が、はっきりとはしない。だがどこかで必ず聞いたことのある言葉だった。思い出せないことほど気持ち悪いものもなく、何度か眉間を揉んでみた。そしてそれもキーワードを並べてみればやがて判明した。
翠屋、ケーキ、喫茶店、海鳴、なのはさんの故郷――。
そこで私は声をかけられた。声の聞こえた方に振り向くと、長い髪の女性が喫茶店の入口付近に立っていた。自分の周りには誰もいないし、明らかに視線は私の方に向けられている。
怪訝な顔で見返していると、彼女は私の方に歩み寄ってきた。
「なのはちゃんの教え子さん、だったよね。一度会ったことがあると思うんだけど覚えてないかな」
何も答えずにいると、彼女は遅れて月村すずかと名乗った。
毛先の方だけに少しウェーブのかかった髪が、ぺこりとお辞儀をしたときに揺れた。霞色に、そういえばと思い起こす。なのはさんの友人だ。とくに自己主張をしたわけでなく、淑やかで穏やかで、ゆえに脳の隅に記憶していた。彼女はどこまでも大人の女性であり、落ち着いていた。女性としては理想だった。だからといってそれ以降思い出すことはなかったけれど。
今ならなのはさんと仲のいい人ということで気にしたかもしれない。だがあの頃はなのはさんについて特別いい印象は持っていなかった。
確かに強かった。導いていくだけの力はあるだろう、リミッターをかけられてなおあの強さはスバルが憧れるのもわかった。だが才能があるだけの、努力を必要としない人間と決めつけていた。見事に打ち破られるまで、興味もわかなかった。
一度あの人に言ったら笑われた。自分の見る目のなさと、偏見の強さに後悔しながらの告白だったから、さらに落ち込んだが、あの人は馬鹿にするように笑ったのではなく、吹き飛ばすように笑った。
気にしなくていいよ、とは言わない。だけど、駄目じゃない、とも言わなかった。
「努力を必要としない魔導師なんていないんだよ」と。
「だけど興味がなかった、かあ。それはちょっとショックかも。わたしはティアナのこと最初から気になってたんだけどな」
「え?」
「ティアナ、綺麗だったから」
「え!」
「にゃはは、ティアナ可愛い。ぎゅーってしていい?」
「じょ、冗談ですか」
「えー、嫌なの?」
「そんなことはないですけど」
「そうかなあ。だって興味なかったんだもんね、そんな人にぎゅーってされても困るよねえ」
「い、今は違いますよ、もちろん。興味どころか気になって気になって仕方なくて、貴方のことならなんでも知りたいくらいで……」
「それ、ほんとう?」
首を傾げるなのはさんが可愛くて可愛くて、胸が不規則に跳ねて。暴走しないよう深呼吸した。
熱くなった息を吐き出して、冷たい空気を胸に取り込む。それでもどきどきは収まらない。きっとこの人がいる限り、私はずっとどきどきしている。
「だから、もう」
抱き締められる前に、私がその人を抱き締めた。
「あたしの前で以外、こんな顔しちゃだめですよ」
――そんなやりとりが、昔あった。そう昔だ。今そんなことはできないし、会う以前に話すことさえない。だから会いに来たのだ。別に前みたいに戻りたいとは望まない。ただ、会いたくて。
スバルに背中を押され、なのはさんの故郷にやってきた。そこでにあの人の友人である月村すずかに出会った。
「あのね、ティアナちゃん、だったよね」
なぜか彼女は私のことを覚えていて、声をかけてきたのだ。本当にどうしてだろう。
だが疑問を最初にぶつけてきたのは彼女だった。
「どうしてここへ?」
「……どうしてあなたは、あたしのことを知っているんですか?」
ほぼ初対面の人に答えるにはあまりに個人的なことでためらい、つい問い返してしまった。任務で、とか適当に言っておけばよかったのだろうけど、言い訳さえ思い浮かばなかった。
「以前会ったといっても何年も前に、しかも一度きりでしょう」
「会ったのはたしかに一度だけど、なのはちゃんが向こうにいた頃は連絡をくれたり、たまに写真とか送ってくれたの。そのときによくあなたの名前がでた。よっぽど気に入ってたのね、教え子のことは四人ともよく話してくれたけど、ティアナが、というのが一番多かった。特に大きな事件が終わったらしい頃から増えてきたかな。ちょっと妬けちゃうくらい楽しそうに話してた。でも一番妬いてたのは私じゃなくてもう一人の友人だけど」
それは。
フェイトさんからきいた、幼馴染の。名前はなんていったか。
「アリサちゃん、昔からなのはちゃんのことが大好きだったんだ。ふふ、ずっと認めなかったけど顔や態度にでるから分かりやすかったなあ」
私もスバルに同じことを言われたことがあった。
「意志が強くて負けず嫌いで、でも優しくて。なのはちゃんのことを一番に思っていた子」
……私もそうだ。同じことを、やっぱりスバルに言われた。
自嘲に近い苦笑をこぼしかけて、彼女が言った次の言葉にはっと呑み込むことになった。
胸を一寸の狂いもなく貫く言葉で、静止することのない世界が時を止める。
「もしあなたがなのはちゃんに会いにきたのならやめてほしい」
深い藍の瞳の奥で、彼女が隠し持っていたであろう真摯な光の輝きがそっと姿を現した。
結局喫茶店には入らないまま、方向を転換することにした。夕暮れはまだだといっても太陽はとうに頭上を過ぎ、斜に位置している。それにあの喫茶店のケーキを私は食べたことがあった。
幾年も昔、私がまだ機動六課に所属していた頃の話。
なのはさんが実家から送ってもらったものを、差し入れていただいた。たしか食べたのはチョコレートとオレンジのケーキ。チョコの生地の間に、皮の向かれたミカンの房が挟まれ、さらにケーキ全体を包むようにチョコがかけられて、さらに上には生クリームが乗っている。添えられたハーブが仄かな香り彩りを添える。
見た目もよかったし甘さも適切だった。甘味と酸味が交互にやってき、それがまたよかった。
辛い訓練は時に甘いものを体に要求する。程よい甘さのケーキを胃に入れて、それから紅茶だ。紅茶も翠屋オリジナルのものだという。
なのはさんの入れてくれた紅茶を舌で味わいつくすと、ようやく息を吐くことができた。満足しながらカップをおいて息をついたとき、たまたま正面にいたなのはさんの顔が目に入る。あの人はまるで自分が作ったケーキを食べてもらったかのように嬉しそうに微笑んでいた。私は頬が赤くなっていくのを感じ、染まった顔を隠すように置いたカップに再び口をつけるしかなかった。
隣にいた相棒が何も指摘してこなかったのは彼女もケーキに夢中だったからだろう。あの人のあんな顔を私以外の誰も見てなくてよかった。もし見ていたらきっと心を射抜かれてしまう。そんなのは自分だけでいい。そして、あの人が微笑むのは私にだけでいい。
甘い甘いケーキが、紅茶に流されて喉を通った。
今はあの人が現在住んでいるという屋敷に向かう途中だった。
己のあまりあてにならない記憶とクロスミラージュを頼りに、なのはさんの実家へ行くと教えてくれた。なのはさんの家族は私のことを覚えてくれていたらしい。機動六課にいるときに送られたという写真を見せてくれ、人の良さそうな顔つきの女性は微笑む。温和そうで、しかしどこか意志の強そうなところがなのはさんに似ていた。同じ色の髪と瞳が一層その印象を強める。
会わないでと言われ、やめるような覚悟でこの世界に来ているわけではない。言ったのがなのはさんの友人で、なのはさんのことを想う一人であっても変わらない。
自分がしていることは多くの人に迷惑をかけるかもしれない。あの人が私のことを忘れていたとして、自分のことを思い出し、また辛い想いを古傷のように疼かせてしまうかもしれない。そばにいる相手だってそうだ。昔の恋人の存在など迷惑以外のなにものでもない。傷ついたなのはさんを癒したのは紛れもないその人。
月村すずかは言っていた。
「元気をなくしたなのはちゃんの傍に少しでもいようとして、下手な笑顔ならしなくていいといってあげたのはアリサちゃん。――そんな笑顔は自分を何よりも幸せにしないから、ならあたしは見れなくてもかまわない。なのはの笑顔は好きだけど、なのはを不幸にしてまで見るものじゃない。いつかあたしが本当の笑顔を引き出してみせる。そのためには涙も流していい。あたしといるときだけは、いくらでも泣いて良いから。いつか心から笑ってくれればそれでいいの――アリサちゃんはそう言っていた。私はその言葉を聞いた瞬間から、二人を見守ることにした。介入せず、じっと待っていた。なのはちゃんのことをここまで考えて理解し、受け止めることができるのはアリサちゃんだけだと思ったから。ねえ、あなたにそれができるかな。出来ないから、なのはちゃんはこちらに戻ってきたんじゃないの? 追い続けた夢を捨てて、受け入れてくれる人を手放しで求めて」
眼を伏せて、彼女は続ける。
「あなたはなのはちゃんを傷つけた。あなたがここに来るまでにどれだけ傷ついて考えたのかは知らないし知りようもないけど、その事実が消えることなんてないんだよ」
ただ言葉を受け止め何も返せない自分へ向けて、彼女は最後に言った。
「だから私は、あなたをなのはちゃんに会わせたくない。近づかないで」
そんな彼女に言えることは何もなく、私は無言で喫茶翠屋の前から離れた。
考えれば気が重くなる。最悪、誰からも望まれない再会が生みだされるだけかもしれないのだ。自分も相手も、周りの人も傷つけるような、そんなことがあってもいいのか。
何しにきたの?
そう言われるかもしれないと考えると怖くなった。あの人が冷たい目で私を見つめて言うことがあったなら、恐らく耐えられない。
けれど足は止まらずに進んでくれた。道端の塀の向こう側から犬が吠えて、スバルの言葉を思い出す。
「大丈夫、ティアならきっと、ね?」
家が見えてきた。家というにはあまりに大きい屋敷が。
私は出会いの意味を求めていた。どうして私があの人と出会わなければならなかったのか。偶然でなく必然ならば、そこに何の意味があったのか。幸せな時間を塗りつぶすほど傷つけあった。出会いを喜ぶより後悔の方が大きかった。
たしかにあの人は、才能のある人間も努力をするのだという当然のことを教えてくれ、偏見を拭い去ってくれたし、魔法戦を教えてくれた。強くしてくれた。それは生きて行くのに必要なことだったんだろう。六課での経験は執務官になるためになくてはならない糧だったんだろう。だけれどもそのことを踏まえても、やっぱり意味を見出だせない。
あの人に出会わなければ――。
どんなに虚しくて、昏い世界を生きることになっただろう――。
出口のない考えをさ迷う。やがて私は答えのでないまま、屋敷に辿り着いた。
答えなど最初からどこにも用意されていないのかもしれない。そして、求めることにも意味がない。今はただ、あの人に会ったときに言う言葉を探しながら玄関の呼び鈴を鳴らす。
出てきたのは執事らしき人だった。黒服に身を包み、白いシャツにタイをつけている。短い髪をぴしりと固め、身だしなみも乱れがない。雰囲気からも全く老いを感じさせなかった。白髪でなければ年をとっていることにさえ気付けなかっただろう。
私は彼に屋敷を訪ねた理由を説明した。ここに会いたい人がいる、自分はなのはさんに会いにきたのだと伝えた。彼はしばし考える素振りをした後、首を横に振った。
「たしかにここになのは様はいます。しかし今はいません」
「どういうことですか?」
「外出しているのですよ。奥様は散歩をよくされ、日が暮れるまでは外にお出かけになることが主なのです。ですから日中屋敷には滅多にいらっしゃいません」
……奥様。
「どこへ行ったかというのは分かりますか」
「いいえ、何もおっしゃられませんので。それに分かっていたとしてもあなた様にお教えすることはできません、申し訳ありませんが」
「そう、ですか」
「ランスターさんの訪問をお伝えすることはできますよ」
「いいえ、ありがとうございます」
「それでは」
私は彼に会釈をし、長い長い塀に沿ってきた道を戻る。落胆はなかった。それより他人の家からあの人が出てくるショックのほうが大きかっただろう。私は再びなのはさんを探すために歩き始める。
道を行き、草むらを横切り、町を歩いた。学校の門を通り過ぎ、神社の境内にも入った。そこにいた巫女と子狐に励まされて、私は再び町に降りる。病院も、コンサートホールも通った。だけどなのはさんがそんな所にいるはずもなく、喫茶店に舞い戻ってきた。もしかしたら来ているかもしれないと考えたからだが、なのはさんはいなかったしあの友人も既にいなくなっていた。
諦めるつもりはなかったが、日が暮れかけると気力も削がれてくる。探せば見つかると思った。会いたいという気持ちがあれば会えるのだと、わけもなく信じ切っていた。だがそれも日が暮れてしまうまで。空が明るいうちはあった望みも太陽とともに沈んでいった。
やがて私は海岸沿いを歩いていて、広い公園をみつける。空には赤みが差し始めていた。
木のそばにあるベンチからは海が見えた。歩き通しだった一日を思うと溜息が喉を突き上げてくる。あの人は見つからない。あとは完全に暗くなってから再びあの屋敷にいくしかなさそうだけど、会えるかどうかもわからない。
「だめ、なのかな」
不安が呟きとなって漏れこぼれる。
ふと二つ向こうのベンチの方から人の声が聞こえてきた。顔を向けてみると、たこ焼き売りの屋台が来ているようで、何人かが買い求めていた。そういえば美味しそうな香りをさせている。空腹であることも手伝って、私はポケットに入れた財布を取り出して立ち上がった。
当然ながら調査任務などで別世界に行く時は、その世界の貨幣が必要になることもある。お金がなくてもできることはあるが、お金がなければできないこともある。食事や寝泊りなどがそれに該当する。今回もこちらの世界に来る際に換金してきていた。だから困りはしないのだけど。
立ち上がって、屋台の向こう側にもベンチがあることを知った。ほとんどが空席だがそのうちのひとつに、人影があった。じっと見つめてみても身動きひとつしないから本当に人なのか自信がなくなってくる。誰かが置き忘れた荷物か、動物かとも。
だけどそれは人だった。呼吸しているのが疑わしいほど動かない、だけど確かに人である。それも、私の最も求めていた。
彼女は眼前にそびえる海を表情一つ変えずに見つめている。呼吸さえ忘れてしまったかのように、海を見つめることこそが唯一の使命であるかのように、じっと赤い太陽が海の中に溶けていく様子を眺めていた。
……なのはさん。
数年、記憶の中のものと全く変わらない横顔。赤い世界の中にあっても、世界がこの瞬間に終わろうとしていても揺るがないであろう美しさと、儚さを兼ね備えた人。私は彼女と一年、あるいは八か月間一緒にいた。彼女の、高町なのはという名前は私が生涯忘れることのないもの。
こんなところに居た――、なのはさん。
私は息を凝らし見ていた。声をかけるのも忘れて、もしかしたらぼうっとしていたのかもしれない。私の中の時間も周囲の時間が動いていることも、全部投げ捨ててしまっていた。
屋台の人に呼びかけられてようやく我に返る。そういえばたこ焼きを買いに屋台の前まで歩いて来ていたのだ。何度も声を掛けられていたのだろう、私がそれでも返さず呆けたままでいると、今さっきまで動かなかった人がこちらに気付いた。
おそらくその時、自分はあまりに間抜けな顔をしていたはずだ。
ティアナ、と呼びかけられて、私はあの時のようになにも答えられなかった。
「ティアナ?」じゃなくて「ティアナ」、と。数年の時さえ無関係に断定してくれるあの人に、驚きよりも喜びが上回った。彼女は私のことを覚えてくれている。六課の時とは違い自分は髪を下ろしていたし、顔つきも少しは変わったんじゃないかと思う。なのになのはさんは私を私だと気付いてくれた。私も、出会った瞬間になのはさんだと分かった。
「あたし、夢を叶えました。一人前の執務官になったんです」
なのはさんが微笑んだ瞬間、楽しい記憶や哀しい記憶、苦しい記憶もすべて赦し、解き放つことができた気がした。
⇒後編へ