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2019-11

『秋、はらむ空』 五章 蒼き星粒……2

『秋、はらむ空』 各タイトル⇒目次

五章 二話「君ほど君を愛している自信はないけれど」
恋を知った日のことを覚えている人なんて、いるもんか。
いつだって微妙な選択と判断を強いられて、なのははくたくたになる。

――私はまっすぐに向かわなきゃいけない。



 秋、はらむ空
 五章 ―蒼き星粒―


 2.君ほど君を愛している自信はないけれど

 うまくいくはずなんてなかった。
 再会したばかりの頃はまだヴィヴィオを浮かべると、幼い少女が浮かんだ。青いリボンで二つに結い私のためにおしゃれをして、「なのはママ」と呼び、いっぱいの笑みをくれたヴィヴィオの姿を重ねていたこともあった。
 だけど今は違う。たまに思い出すこともあるけど、今ヴィヴィオについて考えるとしたらすぐに現在のヴィヴィオが浮かぶ。十五という年齢よりも大人びて見えるヴィヴィオの、若干強気がちな瞳と、長い髪。なのはさん、とはっきりとした口調で呼ぶ少女の声が聞こえてくる。どんなものも貫くような鋭い視線を向けたかと思えば、虚ろで朧げで、溢さないようにと両手を受けてしまうほどの弱々しい瞳も持っている。
 ――ヴィヴィオ。
「ねえ、以前のようには話せないのかな? わたしはヴィヴィオともっとちゃんと話したいの」
 数日ののち、私は思いきってヴィヴィオに尋ねた。今ならヴィヴィオのために自らの両足を切断できるだろうという気がする。しかし少女は瞼を伏せる。
「私も話したい。だけど、今は無理だよ」
「どうして?」
「今なのはさんを避けてるのはね、諦めるためなの。なのはさんのことを諦めて、母親だとみれるようにならなきゃいけない。そのための、普通の親子として過ごしていくための時間が欲しい。今のままじゃただ辛いだけだし、とても諦められない。なのはさんの顔もまともに見れないほどに」
「どのくらいかかる?」と私は訊いた。「分からない」と少女が俯く。
「少なくとも、当分の間」
 ヴィヴィオの言葉を聞いた瞬間、目の奥がつきんと痛んだ。当分、というのは漠然としすぎていた。どれだけかかるか分からない時間、待てるほど私はもう強くはない。
 抑制がきかず、私は震えを殺しながら「嫌だよ」と言った。
「ヴィヴィオと話せないなんて、やだよ。諦める必要なんてない。わたしはヴィヴィオのことが好き。ヴィヴィオに好きでいてくれるのはすごく嬉しいんだよ。なのにどうして?」
「なのはさんの好きと、私の好きとではたぶん意味が違う」
「違わないよ」
 私は首を振った。
「じゃあなのはさんは私とキスができる?」
 ヴィヴィオはそう言って私に顔を近づけてくる。私は意識せず身がこわばるのが分かった。これまで幾度もしてきた単なる口付けだというのに、私は瞼を必要以上にきつく閉じてしまった。受け入れるのではなく、恐れるように。ヴィヴィオを怖がる必要なんてどこにもなかったのに何故かそうしてしまった。後から考えて気付く。心のないキスよりも、心があるキスの方が私にとってはよほど怖かったのだ。
 ヴィヴィオの息が鼻先にかかり、しかしやがて触れないまま離れていった。私は目を開ける。
「ねえ、私はなのはさんと一緒にいたいよ」
「わたしも、ヴィヴィオと一緒にいたいと思ってる」
「本当に私のことが好き? 血が繋がっていないとしても私はなのはさんの子供なんだよ。たしかに親子で関係を持つ人だって世の中にはいるよ。けれど普通じゃない」
「それでも」と私は言った。「わたしたちには関係ないよ」
 私はたぶん、本当の意味でヴィヴィオの言葉を分かっていなかったのだろうと思う。だからそんなことが言えたし、少女に好きだと言う前にすべきことが頭にも上らなかったのだ。
 ヴィヴィオはしばらく俯いたままでいたが、静かに顔を上げる。
「じゃあ、そう納得させて」
 少女は私に、周りの人に別れを告げてみせて、とそう言った。
 私はゆっくりと頷く。フェイトとヴィータとティアナに別れを告げることの想像がつかないまま、分かった、と返した。
「約束だよ」
「ヴィヴィオはもうわたしのことを避けない?」
「うん、避けない」
「一緒にいてくれる?」
「……いるよ、一緒に」ヴィヴィオが目を細め、笑った。私は今どんな情けない顔をしているのだろう。
 少女の笑顔はやがて顰め顔に変わる。笑うのに失敗したというのではなく、力を抜いたらその顔になってしまったみたいに見えた。少女の眉間に寄せられたしわは深く、私がどんなに指で伸ばしても消えそうにない。

 それはおそらく歪な時間だったのだろう。
 私たちはごく自然で平穏な日々を送っていた。少なくとも表向き、私とヴィヴィオは上手くいっているように思えた。ヴィヴィオは私に優しかったし、甘えてもくれた。休息の時間には子供のように遊んだし笑った。夜はまた以前のように部屋で静かに語りあった。内容のない話を途切れさせることなく話していた。会話が途切れたときに訪れる沈黙が怖かったのだ。
 そんなことがいつまでも続くはずがなかった。ヴィヴィオが無理をしているだろうことは薄々気付いていた。少女は心に暗いものを抱え持っている。何故なら私は誰にも別れを告げられていない。会って言おうとする度に、そのあと目にするだろう泣き顔を想像しては胃液がせり上がってきた。辛い時に支えてくれたのは彼女たちだったのだ。言えない、分かっていたのに、私は――。
 そのうちにヴィヴィオが言う。
「なのはさんの私を好きという気持ちはどこまでいっても“家族”なんだよ。私が望んでるのはそうじゃなくて、私だけを愛してほしいの。なのはさんに自分だけを見てほしいのに」
 見ている、と私は言いたかった。けれどヴィヴィオとの約束も守れないようでは口にする権利もない。
「どうしてできないの? 好きって言ってくれた言葉はその場だけの嘘? ねえ、なのはさんが見てるのって、今の私じゃなくて昔のヴィヴィオなんじゃないの」
 違う。私は今のヴィヴィオを見ている。ただ声が出ない。
 一緒にいると言ってくれた何日間か、少女はずっと無言で語ってくれていた。ただ私が聴こうとしなかっただけ。現実に鼓膜をたたく優しさに満ちた音だけを拾って、心が訴える悲愴な想いを聴こうとしなかっただけだった。
「やっぱり……無理だね」
 少女が頬に涙を落とす。一粒ひとつぶが私の胸の中に落ち、芯から冷やしていく。それでも私は黙ってヴィヴィオの言葉を受け止めている。私はしなければならないことを提示してくれて、その上で無視をしたのだ。そんな自分が何を言えるだろう。
「耐えられる今のうちに……、ごめん。これ以上すすんだら私、もっとなのはさんのこと好きになっちゃうよ。そうしたらもう何をするかわからない。そこまでいったら母親だなんてとても思えなくなってしまう」
 ヴィヴィオが離れていく。意識の中で身体は誰かの手足に掴まれて動けず、舌も縛り付けられて喋れない。そうしているのはフェイトでありヴィータであり、ティアナだった。でもそれは私自身が招いたことだった。彼女たちをそうさせてしまったのは自分だ。
 少なくとも、当分の間。とヴィヴィオは言った。でも私には完全な別れのように思える。ヴィヴィオにとっては分かっているのかもしれないが、離れられる方にとっては永遠にも等しい。いつかなんて期待は浮かびようがない。ヴィヴィオは目の前で離れていく。そして私は約束を破っているのだ。そんな二人が親子になんてなれるのだろうか。
 ヴィヴィオ。
「ヴィヴィオ……っ」
 私は呟いてみる。ひとり空虚に向かって何度も呟く。
 ……ねえヴィヴィオ。なのはママ、ちょっと疲れたよ。想いの種類ってそんなに大事なの?
 聞ける人はいなかった。頼る人もまたいない。はやてはヴィータの味方になるだろうし、スバルはティアナを応援すると言った。フェイトやヴィータに聞くのはそれこそおかしいだろう。アリサに電話をすれば元気な声で、この陰鬱な気持ちを吹き飛ばしてくれるかもしれない。だからこそ違うと思った。私の身勝手で心配をかけて何になる?
 だがそうなると私に味方はいないのだということに気付かされた。フェイトには菜乃が、ヴィータにははやてが、ティアナにはスバルが味方となっている。けれど私には誰もいない。
 自分はつまり、どんなに人と交わろうと孤独を抜き去れないのだ。孤独というものは私の傍にいて無駄だと言っている。でも心配することはないんだ、と孤独が言う。怖くはない、むしろ君にとっては一番信頼できるはずだよ。親密な笑みを浮かべ、手を差し伸べてくる。私が孤独を救いのように思う事があるのはそのせいだった。それもいいかもしれないと私は思う。そうだと思えば、私はきっと一人でも生きていけるに違いない。もしも生きていけないのならヴィヴィオの涙を拭い、温かな抱擁を与えていたはずだった。一切の思考を放棄しヴィヴィオを引きとめて縋った。でも私はそうしなかった。少女を腕に抱いてしまったら今度こそ自分は耐えられなくなると知っていた。
 私はいったい何なんだろう。ヴィヴィオがいない生活が耐えられないと言いつつ、こっそりと一人で生きていくことを覚悟し、身構え、準備している私は。
 その時、私の肩を叩いた人がいる。味方ではないが敵でもない、薄紫色の長い髪をした騎士。彼女は切れ長の目をさらに細めている。端正な顔を微妙に歪め、俯いた私を振り向かせる。
「少しいいか?」
 シグナムはそう言って、不器用に笑った。

 食堂のテーブルには遅い時間であっても疎らながら人々が席についている。夜の閑静な空気に漂う人々の息遣いを通り抜け、私とシグナムはその中の一つに腰を下ろす。互いの手元には白く立ち上る湯気があり、仄かな甘さを匂わせるココアがあった。シグナムは甘いものは苦手だが、甘い飲み物は好きだという。例えばチョコレートとココア。二つの甘さの違いが私には分からないけれど、きっと彼女の中では明確な線引きがあるんだろう。
 一口飲み干すと私は息を吐いた。強張った肩の力が僅かに抜ける。シグナムも同じようにカップを口に運んでいた。カップの中の焦げ茶が半分ほどに減った頃、食堂から人がいなくなった。温くなったカップで冷えた掌を温めながら、私は話し始める。
 恋が分からないと私は言った。シグナムは苦笑したものの決してふざけることなく、ただ照れているのだろうか頬をいじり、咳払いをする。
「私にわかることは少ないが、それでもいいなら相談にのろう」
 私は頷いた。もとより、恋なら自分に任せろというような人間の説明をきくつもりはなかった。たいていは同じことしか言ってくれない。悪いとは思わないが、自分には間違いなく理解できないだろう。私はシグナムの言葉を心強く感じていた。
「私は思うんだ、そういった感情がさほど重要ではないと。主はやてに対して私は何よりも大切な人であるし護りたいと思う。ヴィータやシャマル、ザフィーラだって大切な仲間だ。きっと厳密にいえば感情の種類は違う。でもどうでもいいんだよそんなことは。重要なのはどれだけ大切かだ。なのはもそう思っていたのだろう。だが今になって知りたいと考えたのは何故だ?」
 シグナムの問いに、私ははっきりと答える。
「ヴィヴィオが望んだからです」
 ヴィヴィオが望むなら、私の持論なんて放り捨ててしまえる。それを浅はかで愚かしいととる人はいるかもしれないが、思うなら思っておけばいい。私にとって周囲の評価などどうでもよかった。本当に譲れないものというのはもっと別の場所にある。
 言えば、彼女は唇を持ち上げて笑った。「それは何よりの理由だ」、私は彼女のことが更に好きになった。
「そういえば」とシグナムは言う。
「ヴィヴィオはヴィータと仲がいいな。二人を見てどう感じる?」
 突然なんだろうと私は思う。がシグナムのことだ、思うところがあるのだろう。私は少し考えて答えた。
「嬉しくなります。大好きな二人の笑う顔が見られるから」
 シグナムは私の答えに深く頷く。
「そのヴィヴィオとヴィータが手を繋いでいたら?」
「え?」
「それも親密そうに、指を絡めるようにしてだ」
 頭に思い浮かべたとたん、私の中の何かが悲鳴を上げる。でも私は瞼を落とし、聞こえないふりをして「同じです。きっと幸せな気持ちになる」と言った。そうか、とシグナムも目を閉じる。彼女は一体私から何を引き出そうとしているのだろう。いい予感はしない。私は訊かないほうがいいのかもしれないと今更思うが、逃げることはできなかった。きっと彼女が私から引き出そうとしているのは必要なことであるはずだった。
 だけどやはりここで止めておくべきだったのだ。
「では、なのはに対しては絶対に見せない笑顔を、ヴィヴィオが他の誰かに向けていたら?」彼女は更に続ける。
「お前とヴィータがしているようなキスを、ヴィヴィオと誰かがしているとしたらどんな気分だ」
 一瞬、心臓が焔で焼かれる心地がした。でも私は辛うじて冷静を装いながら「そうなんですか」と尋ねる。
「例えばだよ」とシグナムが言う。「だが、お前はその腹の中で何を思った?」
「……わたしは」
 小さく息をのむ。嫌な気持ちしかないのにどう言ったらいいのか。いいや、そもそも口に出していいとも思えなかった。
「いいか、なのは」シグナムが私の心境を見抜くように優しく告げる。「聞いているのは私一人だ。そしてお前のどんな言葉も私の体を素通りして、残らずに消えていく。だから安心するといい」
 彼女が私の頭に手を乗せる。子供をあやすようにぽんと叩いた。それで私はようやく言葉にする決心がついた。
「……痛いです。魔力の刃で突き刺されたように冷たくてすごく痛い。吐き気だってする。だって、おかしいですよね。ただのキスなのに」
 そう、ただのキスだった。私にとっては唇や舌が触れ合うだけのことだ。幾度となくしてきた。だというのにヴィヴィオが他の誰かとそういうことをしているのだと想像すると焼き付きそうになる。酷い寒気と言葉にならない焦燥感があった。
「おかしくはない。おかしくはないさ。それが嫉妬で、それが恋だ――おそらくな」
 すべてを許すような優しい笑みを彼女は浮かべる。私はほとほと泣きたい気持ちになったが、涙は出てこなかった。私が泣くべき場所は誰かの胸にはない。私は私の部屋でのみ泣けるのだ。だから我慢しないといけない。大丈夫、私はできる。
 けれどふと考える。ヴィヴィオはもしかしたら今までにずっとこんな気持ちを抱えていたのだろうか。私が誰かと話をするたび、誰かの部屋に行くたび。ティアナと無断外泊をした時も?
「真に大切なもの何か、選ぶべきは誰かをよく考えるのだ」とシグナムは言った。
「誰も二つは抱えられないというのは、なのはが一番よく分かっているはずだ。そして選ぶべきはもう決まっているのだろう?」
 ヴィヴィオ、と私は呟く。誰か一人を思い浮かべたとき、それはヴィヴィオ以外にいない。
「でもシグナムさんはいいんですか?」
「ん?」
「家族なんでしょう」
 我ながら勝手な言い分だとは思ったが、どうしても気になった。彼女には私の心にある選ぶべき誰かを悟っているようだった。ならば私に助言することは、ヴィータに別れを告げることを推薦しているようなものだ。
「そうだな、主の悲しむ顔もヴィータの悲しむ顔も見たくはないが、どのみち偽った気持ちならうまくいかない。早めに言ってやったほうが楽になる」
 彼女はとても優しいんだと思った。ヴィータもそうだし、シャマル先生もそうだ。ヴィヴィオと遊んでくれているザフィーラも優しい。彼女たちは私のような人にも優しくしてくれる。月の光のようにあたたかく穏やかな優しさで満ちている。彼女たちの主、八神はやてのように。
 でも私は……違っていた。大切な一人だけを選ぼうとしている。


 シグナムと別れたあと、しばらく自分の部屋にこもり、灯りを消してベッドに仰向けになって寝た。窓ガラスをさらさらとした風が吹いている。窓枠に伸びた枝が大きく揺れていた。
 私はひどい静寂の中に居る。頭はすっかりと冷え切っていたが、胸の中は熱い。
 起き上がってから私はヴィヴィオに通信を入れる。これから行ってくるよ、と。何をかは言わない。言わなくてもきっとヴィヴィオならわかってくれる。そう、と少女は言う。そして通信が切れる。
 まず私はフェイトの部屋を訪れた。部屋には当然ながら菜乃がいて、少女はフェイトの膝に乗り本を読んでもらっていた。フェイトが私の姿を認めると少女を膝の上から下ろす。若干残念そうな表情をするが、少女はすぐに元の笑顔に戻った。一瞬だけ昔の自分をそこに見る。
 フェイトと二人きりになると私は話を切り出した。部屋に来る前はどう言おうかずっと悩んでいたが、彼女を前にするとすっと言葉が出てくる。私の中では思うよりも先に整理がついていたのかもしれない。
 妙に落ち着いた心境で私はフェイトの前に座り、彼女の顔を真正面から見詰めている。相変わらず美しい、と思った。ある程度まで整うと人は近寄り難くなるものだが、彼女の場合はとても親しみ深い美しさを持ち合わせていたため、相対するこちらも引け目を感じなくていい。きっとその気になれば断っても断り切れないほどの人間に好意を寄せられることだろう。でも彼女はそれらをすべて跳ねのけ、私にのみ想いを注いでくれている。とても幸福なことなのだろう。
 だけど私にとっての幸福ではないと知ってしまった。ならばきちんと言わなければならない。ヴィヴィオへの気持ち。私たちは抱き合うことはできないんだということ。別れを。
 私が言い終わると、「私は頷かなくちゃ駄目なんだろうか」とフェイトが呟いた。
「なのはの言葉をきいて考えてみた。結論はノーだ。私は了承しなくてもいい」
 私はフェイトの言葉を黙って聞いている。
「確かに私には護るべき人というのがたくさんいるよ、たくさんいる。あの子だって。だから今の私は一人じゃない。……でも」
 彼女は私の腕を掴み、自身の胸に当てる。やわらかな感触と掌を叩く鼓動の音が、私をどことなく悲しくさせる。
「それでもなのはは私のすべてなんだ」
 ――だから頷くわけにはいかない。それは私という存在を揺るがす行為だから。
 私はフェイトの部屋を出た。自分から出ていったのではなく、彼女に帰ってと言われたのだ。私は彼女にそんなことを言われたのは初めてだった。いつだって彼女は私を引き止めるばかりで、すすんで帰してくれたことはない。
 私がそれを苦しいと思うのは見当違いの感情だろう。そして、立ち止まり呼吸を整えることもできない。私はまっすぐに向かわなきゃいけない。言葉で体で、ずっと護ってくれていた鉄槌の騎士、ヴィータのところへ行こう。無理やりにネジを巻かれた機械のごとく、私は足を動かす。

 当然そこでも私はつらい状況に追い込まれることになった。しかし望んで足を踏み入れたのは自分だった。
 ヴィータの腰かけた傍には白いうさぎがあった。プレゼントしたものを、彼女は臆面もなく私に晒していた。彼女はそうすることを嫌っていそうだったのに。生きているうさぎであればちぎれそうなほどに強く掴んでいるのを見て、結局私は自分の黒いうさぎと対面させることがなかったな、と今更のように思う。
 二人の間を時が流れていき、やがてぴたりと止まる。彼女が静かに口を開いた。
「あたしが望んでるのは一つしかない。これからもお前の騎士であることはできるのか?」
 言葉を待っている間はほんの数秒だったかもしれない。結われた赤い髪を見て、透き通る蒼い目を受け止めるうち、砂漠を丸ごと飲み込んだみたいに酷く喉が乾いていた。そして彼女の言葉は私の胸を正確に射抜く。
 けれど、ごめん、と私は言った。
「わたしにはもうヴィヴィオがいるから、駄目なの」
「ああ。あいつも古きベルカの騎士だったな」
 そうだった、とヴィータが小さく呟き、唇を結ぶ。
 私はしばらく言葉の続きを待っていたが、彼女はもう二度と口を開かなかった。俯いて、右手で白いうさぎの腕を握りしめている。
 私は沈黙を保ったままのヴィータを残し、部屋を出た。フェイトの部屋を出たときよりもずっと足取りは重く、気分は暗い。深呼吸どころか横になってしまいたいくらいだった。しかしまだ終わっていない。
 ティアナがいる。

 外に出ると、彼女はすぐに見つかった。
 二つの月が夜の長い時間の中でゆっくりと欠けたり満ちたりしながら、ティアナの肩や髪に光を散らしている。
 ティアナはやはり六課の隅にある広場に茂った真冬にも枯れぬ草の上に座っていた。訓練後なのかバリアジャケットのまま、ベンチをわざと避けるようにして膝を抱え、空に浮かぶ白い月を眺めている。彼女にとってもう届かない空ではないはずだったが、彼女は今でも永久に会えない人を見詰めるように眺めていた。兄のことを考えているんだろうか。それとも――。
 私がティアナに近づくまでもなく、彼女の方から歩み寄ってくる。凍りつきそうな地面を踏み鳴らし、部下らしい佇まいで私の前に立つ。ティアナに手を差し出し、一緒に居てほしいと言ってからまだそう時間が経っていないのに、このとき私は全く反対の意味で彼女の前にいる。
「続けられないとあなたがそう言えば」、ティアナの首振りが滞る空気を震わす。「あたしには拒否することができません」
「そうじゃない。ただ勝手で、ごめんって謝りたかったんだ」
 彼女は冷えた空気の中に溜息を吐き出す。謝らても仕方がないというように。私もそう思う。しかしここで謝らないのは、仕方がないとしてももっと駄目だ。
「訊きたいことがあります」とティアナが言った。今日は訊かれてばかりだ。でも私にはありがたい、訊かれないということはある意味興味がないということだと思っているから。
 だけどティアナの顔を見てはっとする。そこには興味などという中途半端な感情は浮かんでいなかった。これは、知っている。今なら分かる。私がヴィヴィオに向けているのと同じものだ。
 彼女は今まで散々言ってくれていたのに、私は本当のところで何も分かっていなかった。ヴィヴィオへの気持ちを知ってから彼女が今までぶつけてくれた言葉の重みや歪みに気付くなんて、まったくの皮肉だ。本当に、ティアナは私のことを愛してくれていた。
「あたしとのこと、後悔してますか?」
 彼女の瞳に滲むものを見据えながら、私は首を振る。
「じゃあいいです。だって、あたしには結局なのはさんの言葉を受け入れるしかないんですよ。ようやく恋を見つけたんですよね。あたしとじゃ駄目だった、ただそれだけのことです」
 月の光を受けたティアナは美しく、口元に浮かんだ笑みは緩やかに私の心を振り動かす。いつだってだ。でもそれだけじゃ駄目なことが世の中にはあるというのを、私はすでに知っている。
「心配しないでください。今度は訓練に出ますよ。いつもどおりです。前回は最後の賭けみたいなものでしたけど、なのはさんの心が決まっている今そんなことをしても仕方がない」
「うん」
「それではこれから自主練を再開するので、失礼します」
「もう遅い時間だし、あまり無茶しちゃだめだよ」
「もちろん」とティアナが言った。何がもちろんなのか、私には分からない。しかしそこで会話は終わった。恐ろしく短い、事務的な会話だった。
 元々付き合っているわけでもなかった。ただそこにある想いを交わしながら体を重ねただけの関係で、私たちが積み上げてきたものといえばそれぐらいだった。でも私は、私なりにティアナのことを――そこまで考えて、いいや、と考え直す。今はヴィヴィオだけを想っていればいい。想わなければならないのだ。そうでなければヴィヴィオにとってもティアナにとっても失礼だ。
 そのようにして私は皆と別れ、ヴィヴィオの元に向かうことができた。部屋に辿り着いたとき、私は疲れ果てている。扉に寄りかかるようにしてしばらく呼吸を整え、胸の奥からせり上がってくる熱い嗚咽を堪えなければならなかった。ひとつ、ふたつ息を吸う。そして吐き出す。扉一枚向こうに愛しい少女がいて、おそらくはこんな私を待ってくれている。
 私は震える左手でノックし、ヴィヴィオを待つ。
 出迎えてくれた少女の顔を見て、この数日間、私がどれほど少女に会いたかったかを思い出す。
 ただいま、と私は言う。
「ヴィヴィオが好き。今度は受け入れてくれる?」
 少女は私のことを力いっぱい抱き締めて、ありがとう、と呟いた。
「もちろんだよ、なのはさん」
 ヴィヴィオの言葉を皮切りに、私たちは世界一なだらかで残酷な夜を迎える。


 その晩私は夢を見た。昔のことだったが、ヴィヴィオの夢じゃなかった。
 夢で見る過去というのはしばし捏造されたものだ。都合良く変換されたものか、はたまた最悪の状況をイメージして作り変えられたものかという違いはあっても、夢という形をとったとき、記憶は元の姿も分からなくなるほどに乱暴にかき混ぜられている。実際に起こったことそのままを映し出すのなら夢とは全く意味がなくなってしまう。
 夢の中で自分は酷く恐ろしく思っていても、現実に立ち返り、落ち着いてよく考えてみれば、ちっとも怖いものではなかったということもある。また逆になんの変哲のない夢でも、自分にとっての哀しいことが起こっても、それを目が覚めたあとでは幸せな夢だったんじゃないだろうかと思うこともある。
 夢では私は海鳴臨海公園に居た。昔フェイトと友達になった場所だ。どうしてそんなところにいるのかわからないし、フェイトの胸の中にいる理由もさっぱりだ。お互いの姿は幼い頃のものではなかったが精神的には子供だった。フェイトちゃん、と私は抱いている人を呼んでいる。たまらなく悲しくて、しがみつくように服を掴んでいた。一体なんでこんなに悲しいのか分からない。
 半ば暴力的な悲しみから引き剥がすようにフェイトから離れると目が覚めた。ぼんやりと薄暗い部屋に、私はうずくまって眠っている。再び目を閉じたとき、夢はまたやってくる。
 次に見たのは雪の降る夜だった。そこには思ったとおりの人がいて、彼女は大切な人を夜空に見送っているところだった。紅い髪を結った少女は降り積もる雪にも構わず重たげな頭を持ち上げていた。ヴィータちゃん、と呼べばきっと振り向かせることができるだろうが、決してしてはならないことでもあった。長い間立ちすくんでいた彼女は私を一度だけ振り返って、自分の体に積もった雪には構わず、私の頭に積もった僅かな雪をのみ払い、どこかに行ってしまった。よく分からない、けれど夢の中の私はよく分かっていた。私はヴィータの背中を見て、とても怖い場所にいってしまうことを知っていた。彼女はただ家に帰るだけで、私はだから引き止めもせず見送ったけれど、そのときはむしょうに怖いと思っていた。私はしゃがんで雪を手にとり、固めてうさぎを作った。でもそれは雨の最初の一滴で崩れてしまう。
 短い夢が終わり、また新たな夢が始まる。きっと寝てしまえばまた悲しい夢が始まることを知っていたが、眠りは忍び足で強制的にやってくる。完全に覚醒しない限り、永続的に夢は千切れたり離れたりしながら連なっていくのだ。
 三つ目の夢はそれまで見た二つの夢とは異なっていた。
 夢にはもちろんティアナが出てきた。夢を夢とは理解していなかったが、きっとまた怖いことがあるんだろうなというのは分かっていた。あるいは悲しいことがあるんだ。私は身構えてティアナの隣に座った。自動販売機のある休憩所のベンチだった。ティアナはぼんやりと宙を漂う煙を追いながら、左手にコーヒーの入った紙コップを持っていた。彼女は一度私に目線をやっただけで、話そうとはしなかった。まるで知らない人を見るような目つきで、私は不思議に思って話しかけることにする。
「ティアナ、そのコーヒーって美味しいのかな」
「え?」と彼女は怪訝そうに眉を歪める。
「まあ、普通だけど」
 彼女は後ろのスバルを振り返り、「あんたの知ってる人」と訊いた。スバルは大きく頷く。「何言ってるのティア、航空魔導師の戦技教導隊で、ほら。エースオブエースだよ!」スバルはいかにも誇らしげに答えた。
「ああ、高町なのは?」
「そんな人と知り合いだったなんて、知らなかったあ」
「あたしだって知らないわよ。今初めて声かけられたんだから」
「え?」
 スバルの声に被せるよう、私も心の中で言った。
「あの、すみません。何でしょうか?」
 ティアナの問いかけに私は答えられずにいた。だが私はどうにか声を絞り出し「コーヒー」と呟く。
「コーヒーを飲もうと思って。それは飲んだことがなかったから。突然ごめんね」
 私が苦笑がちに唇を歪めると、彼女は心底困った顔をした。これ以上いても困らせるだけだろうと私はその場を去ることに決めた。だが立ち上がった私をティアナが引き止める。
「ミルクがもし苦手じゃないなら、コーヒーはこちらの右隣の方が美味しいです」
「ありがとう。でも飲んだことがあるんだ」
 私がそう言って振り返ると、彼女に唇を覆われた。液体が口腔に流し込まれ、飲み切れなかったものが口元からこぼれて顎を伝う。拭った液体の色はコーヒーの褐色なのに、味は血そのものだった。舌に触れた瞬間、これは私の血なんだということを理解する。そして販売機の右隣に並んでいるのはティアナの血なのだ。これなら確かに他の方がおいしいだろう。自分の血と言うのは酷く不味い。とても飲めたものではなかった。
 ティアナはそれから懐に入っていたクロスミラージュを起動させ、セカンドモードで十の指を切り落とした。――これはあなたのものです、と彼女は言う。
「記憶なんかで想っているわけじゃない。なのはさんのことを、あたしは全部で愛してるんです」
 咥内に残っていた血を無理やり飲み込むと、そこで夢は終わった。

 夢には抗えない。夢を見ないようにもできないし、十何年と経っても忘れることの出来ないものもある。
 だから私はいい加減起きてしまうことにする。今日はもう寝るべきじゃない。


 身を持ち上げるように目を覚ますと、隣でヴィヴィオが本を読んでいる。
 私はついさっきまで見ていた夢のことを考えようとしたが、心臓が震えるように悲しくなってやめてしまった。真剣に夢のことを考えれば、大抵は思い出せてしまう。でも目が覚めたのは、とても悲しい夢を振りきりたかったからだった。悲しくて怖い夢なら、忘れていた方がいい。
 ふと震えるほど寒いことに気付き、肩まであった掛け布団を首元まで引き寄せる。それから目線だけでヴィヴィオの方を向いた。彼女は真剣に字を追っていて話しかけ難い雰囲気があった。寝転びながら本を読む姿というのも魅力的だ。紙をめくるぱらぱらと乾いた音が静寂の中にあるただ一つの音で、私と彼女の呼吸は外で吹く風よりもひっそりとしている。まるで空気だった。でも確かにそこにあり、どんな静寂が彼女の呼吸の音を消したとしても、傍にいる私の耳には届く。
 引き締まった口元ときりりと伸びた眉は微動だにせず、大きな色違いの瞳が時折閉じられ、その度に長い睫毛が目淵に影を落とした。あと二時間もすれば陽が昇る。ずっと見ていてもいいけど、やはりヴィヴィオにはこちらを向いてほしい。
 布団からでた白い肌に触れると、彼女は本を開いたまま私に目線を向ける。
「なのはさんの手は冷たいね」
 寝てる間に冷えちゃった? 目だけで彼女は笑う。優しい微笑みを浮かべた彼女は本を閉じ、ベッドの下に落とすと、肩に置いていた私の手を右手で取り、左手で包みこむ。
「私も布団から出していたからあまり変わらないと思うけど」
「温かいよ、すごく」
 ヴィヴィオの胸に頭を乗せれば、彼女もまた私の冷えた肩に手を添える。腰に腕が回されて、再び優しく抱き締められると、私は酷く安心する。
「なのはさんが冷えたら、私がいつでもこうして温めるよ」
 耳元でヴィヴィオが囁く。先ほどの本を捲る音が鼓膜にまだ残っている夜明け前、彼女の静かな声を聴く。それはどんな音楽よりも柔らかく繊細に響いた。呼吸もおぼつかないほどに疲弊していた自身がゆっくりと癒えていくのを感じ、私は再び訪れる微睡みの中に自分を浸透させる。愛しい人のぬくもりというものはこんなにも優しい。
 不意に自身の頬が強張っていることに気付いた。涙が伝った後のような微妙な強張り方だったが、目覚めた時には涙など流していなかった。寝ている間に乾いてしまったんだろうか?
 考えようとして、しかしヴィヴィオの与えてくれる温もりに浸っているとどうでもよくなってしまった。寝ているときにも、なんだか沢山のことを考えたような気がする。追い払うように私はヴィヴィオをぎゅっと抱きしめた。甘えん坊だね、と彼女が私の後ろ頭を撫でる。
 朝がくるまでの二時間を、私はそうしてヴィヴィオと共に過ごした。

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世界の終わり
銀朱の残照
僕に重ねて、君は夢をみて
ヴィヴィオ×なのは
掌で心をころがして
擬似家族
小さな声で求めて
蜂蜜
硝子内のひめごと
レイジングハート×なのは
午睡
虚空の紅玉
その他
ヴィヴィなのフェイもどき
SHOUT!  前編 / 後編
猫と主と変質者。
なのはにチョコをプレゼントされたときの台詞
なの!!
雷の憂い

― Long Piece Novel ―
幸福の在処
目次
星たちの休日
 /  /  /
別の世界を願うなら
設定 / 目次 / あとがき
追憶の色に埋もれて
目次 / あとがき
秋、はらむ空
前書き / 目次 / 後書き

― Project Story ―
聖夜 ……目次
拍手SS
一代目 手を伸ばして
二代目 時間
二代目 光の章/夜の幻
描写する100のお題 ……目次
陽の中に塗りこめて。 ……目次
振り返る ……目次

About

魔法少女リリカルなのは二次創作物、主に小説を扱っています。
このブログ内で使用している文及び画像の転載は、例外なくご遠慮下さい。

◇小説の傾向
なのはが絡んでいる百合、修羅場が多め。
なのはさんをめためたに愛し、いじめていきます。

◇リンクについて
リンクフリーですが、貼っていただく場合には下の本館にお願いします。
本館:

何かありましたら下まで。
kone6.nanoなのgmail.com(なの⇒@)



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Author:こねろく
リリカルなのはが大好き。
なのはさん溺愛。そしてゆかりさんにめろめろ。
詳しいプロフィールは本館のMYSELFに。

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