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2019-11

『秋、はらむ空』 六章 その始まりは、あの終わり……2

『秋、はらむ空』 各タイトル⇒目次

二話「影になれなかった少女」
少女は、いてもおかしくないと思ってる。でも実際にはいない。だからこういった結末とした。
誰も悪くなかったといいたいが、本当は誰もが悪であった。

――彼女は自分を殺す自由さえない。



 秋、はらむ空
 六章 ―その始まりは、あの終わり―


 2.影になれなかった少女――ANOTHER SIDE

「ただいま」
 見舞いから帰ってきたフェイトへ、名前を呼ばれた少女ははっと顔を上げる。無理やりとった休日だとフェイトは言っていたのに、おそらくは懸命に終わらせた仕事から明け方戻ると四時間ほど寝て起き、医療院に出かけたのは昼前で、再び少女の居る部屋の扉が開かれた時には既に日が暮れていた。
「おかえり、フェイトちゃん」
「ああ」
 幾分すっきりとした顔でフェイトが笑う。その笑顔に影が差しているのを、菜乃は見つける。
「夕ご飯をなのはに食べさせてきたんだ。ようやくお粥に変わってね、と言ってもまだ三分粥だから水分ばかりで粒を探す方が難しいんだけど」
 フェイトは幾分嬉しげに話す。たとえ影があったとしてもこうまで彼女が笑えるのは、なのはのために他ならないことを少女は知っている。
 フェイトの変貌を最も間近で見ていたのは菜乃であった。少女はしかもフェイト自身よりフェイトの全てに敏感で、指一本の揺らぎさえ見逃しはしながった。あるいは瞬きの際に抜け落ちた睫毛のひとひらのような不運さも持ちあわせていた。
 菜乃はフェイトをじっと見詰める。
 フェイトはたまに菜乃のことを『なのは』と呼んだが、重ねていても愛してくれるならと考えていた。しかし彼女が自分をなのはの代わりとさえ見ていなかったことに、少女は次第に気付いてしまう。
 遠い世界の出張から戻ってきたフェイトを迎えたなのはの墜落の知らせに、少女が見張るまでもなくその狼狽は顕著だった。
 ――な、のは。
 酷い呟きだと少女は思う。もしかしたら声ですらなかったかもしれない。たった三文字の、たかが一人の名前が、地獄を這いあがった者の呻き声よりも重たく暗く響き、聴く者の耳を痛めた。少女はつい両方の耳を頭の中で覆ってしまう。
 フェイトのそんな姿を少女は見ていたくなかった。
 どうしてそんなに辛そうなのか。そしてそうまでしてどうしてあの人を想いつづけていられるのか。少女から見たなのはは、恋人がいるにもかかわらずフェイトと肌を合わせ、さらに女性を手当たり次第に誑かせる非人道的な人間であった。優しげな微笑みの下に隠した醜い顔を少女はずっと見ていた。本当にそんなものがあるのかは別にして、少女はなのはのことが我慢ならなかった。なのはのことでどれだけフェイトが泣いているか知れない。少女にっとてなのははただ、最愛の人を苦しめるだけの存在にすぎなかったのである。
 なのはが一週間六課を空けるまで、フェイトは少女につきっきりで相手をしていた。外に出る時に苦い顔をされるのは少し辛かったが、それだけフェイトが自分に執着してくれているのだ思えば何の苦にもならなかった。愛しいと思っていた。フェイトが少女に対して向けているよりも大きな執着を、少女はフェイトに覚えていたのだろう。ただ少女は表したりはしなかった。拒絶されることを恐れ、迷惑になることも怖がって少女は部屋で膝を抱え、いつもフェイトの帰りを待っていたのだ。
 フェイトが少女を抱き締める時、その胸にはなのはがいるとは理解していた。でもそこには幸せというものがあった。暗く冷たい幸せであっても、少女にとってはかけがえのないものだったのだ。
 だがなのははそういった少女の幸福を無造作に攫っていく。
「フェイトちゃん、ごめんね」
 自分と似たあの人の声。優しげで痛々しい色を含んだ声だった。なのはがドアの前に立っていると分かった瞬間にフェイトは自身を腕に抱いた。だから少女は胸の中で、その人の声を聞いていた。きつく力を込めらて両腕が痛む。いつもは柔らかで温かい乳房も呼吸を圧迫するものになり変わっている。それでも少女は、フェイトのことを突き放したりなどできなかった。
「また時間が経って、お話できるようになったらいいね」
 暫くして扉の前からなのはが立ち去る気配を感じた。
 なんて勝手なことを、と菜乃は思う。なんて勝手な人なんだろう。
 言葉にしかけるが、不意に以前部屋を訪れ、遊んでくれたなのはのことがよぎって、少女は口をつぐんだ。ほんの僅かではあったが、共に過ごした時間があった。彼女の笑顔を少女は好きになれない。形ばかりのそれなど見ているだけで吐き気がする。覚えがあるからこそ、なおさらだった。――おそらくは同族嫌悪という名の、感情。
「絵本を読むのが好きなんだってね」となのはが言った。少女はこくり、頷く。
「フェイト、さんに。いつも読んでもらっています」
「そっか。あ、これだね」なのはは小さな本棚に目線をやる。「どのお話が好きなのかな」
 少女はしばし考えこんだ。絵本を読むというよりは、フェイトに読んでもらうのが好きだったのだ。だがそんな内心など微塵も見せず、少女は立ち上がってお気に入りの一冊を取り出した。
 それは紅い輝きをもった星に住む、一人の王子の話だった。
 王子は夜ごと海の果てを眺めては、この先はいったいどこにつづいているんだろう、と考えていた。彼はある日、紅く弓型に反る月に問いかける。ねえ、僕はこの向こうに行けるんだろうか。月は答えなかった。月は満ちている時でないと機嫌を損ねてしまうらしい。だから彼はしばらくまた眺める日々を過ごすことになる。何の変化もない日常に一人の女性が訪れた。彼は驚いた。彼女は海の上に裸足で立っていたのだ。彼女は無言で俯いている。何か話しかけようとするが、彼女はひどく神秘的な存在で夜の海の上にいた。彼は喉を詰まらせた。紅い月の光が彼女の髪を洗い流し、さらさらと夜が流れる音が聞こえてきた。
「もしあなたが海の向こうを知りたいと思うなら、立ちあがるといい」
 月の声だった。紅い月が彼に投げかけている。月が半分だけ欠けた姿で頭上に浮かんでいた。
「すでに君は、そこを飛び立つための白い外套を背負っているんだから」
 顔をあげた瞬間、瞳が熱く焼かれる。猛烈な痛みが彼を襲うがやがて過ぎ去った。彼は海に立つ。白い外套を背負いなおして彼女の元へ向かう。辿りつくと、彼の金色の髪は彼女の指で丁寧に触れられた。手が差し出され、彼がそれを取る。そして二人は果てに近づくにつれ、海に沈んでいく。別に空や地の上でなくてもよかったのだ。それに(悪くない)と彼は思う。海の底には闇しかなかったが、彼の手には冷たい彼女の手があった。彼はただあの場所にいたくなかったのだと、このときようやく知ることができた。
 物語はそこで終わる。
「これで終わりなんだ?」となのはが首を傾げる。当然の疑問かと少女も思う。
 この話には王子が王子である必要性も、紅い月の秘密も描かれていなかった。物語を理解するために必要な何もない。要するに白紙とおなじで、ページには淡い色彩で描かれた孤独な王子と美しいとしか表しようのない水色のレースを纏った女性と赤い月、ひたすらに深い海。たったそれだけだった。
 だというのに、菜乃はわけもなく惹かれたのである。きっとそこにでてくる王子の容貌がフェイトに似ていたせいかもしれない。
 金色の髪に白い外套は、写真でみたフェイトの防護服姿そのものだった。そして海の上にたたずむその女性が――。
「でも絵がすごく綺麗だね、見ているだけで楽しくなっちゃった。絵本ってあまり読んだことがなかったけどもっと読んでみようかな。ヴィヴィオっていう子がいるんだけど、その子も本が好きだから……あ、今度話してみたらどうかな。年もそんなに変わらないし、話だって合うかもしれないしね」
 ヴィヴィオのことは少女も聞いていた。少女が頷き、顔をあげれば満足げななのはの顔があった。にこりと微笑んだ顔は、嫌悪感もあるが、どこかこちらを安心させるような笑みでもあった。
 隣でフェイトがにこにこと楽しそうに話を聞いている。手は少女を握り、視線はなのはの元にある。ああこの笑顔に惹かれたんだとしたら、無理もないかと、フェイトを見上げながら少女は思ったのだった。だがそんな感想は後々のなのはの振る舞いですべてかき消されてしまう。
 フェイトの泣き顔を菜乃はすぐに浮かべることができる。冷たい涙を幾度も指で感じた。拭っても拭っても止まらない愛しい人の落涙に、少女は困惑し、次第になのはへの恨みを募らせていく。なのはに僅かに感じた好意もその背を押した。
 なのはがヴィヴィオとの別れを告げ去っていくとしばらくしてフェイトが立ち上がり、勢いよく扉を開けた。フェイトは自らの悲しみを押し込めてでもなのはを呼びとめたいと思っていたのだ、少女は理解する。途方もなく大きな愛が目の前にあった。自分には決して向けられることのない、フェイトの愛だった。
「なのは……」
 扉越しにフェイトの叫び声を少女は聞く。
 彼女はなんて愛しそうに呼ぶんだろう。一度だってそんな風に菜乃のことを呼んだことはなかった。けれど、菜乃はそれでよかった。フェイトが幸せなら、なのはが彼女に笑顔を与えてくれるならばよかったのだ。
 だから少女は駆けだしてなのはを捕まえ、「フェイトさんのことを悲しませないで欲しい」などとは言わなかった。フェイトはフェイト自身の意思で部屋を出て、なのはを追いかけたのである。
 少女は部屋でじっと嗚咽を堪え、「なのは、なのは」とフェイトが漏らす途切れ途切れの声を聴く。愛しい者を一人で待つことに、少女は耐えられた。それは遺伝子的からくるものなのか、後天的に備わったものなのか。
 なのはが任務先で大怪我をしたと聞き及んだのは七日後のことだ。聖王教会の付属施設である医療院に運び込まれた翌朝ようやくフェイトの耳に入った。その時少女は隣にいたが、自らの身が何故か震えるのを抑えられない。
 高町なのははフェイトの次に多く関わりを持った人物だった。部屋に数度ばかり訪れたなのはだけが、フェイト以外で繋がりをもっていた。ヴィヴィオともついに会うことはなかった。
 寝る前のベッドの中で「ヴィヴィオさんは今どうしてるかな」と一度だけ呟いてみたが、それだけで空気が変わった。「さあ」とフェイトは言う。つばを飲み込んだような硬い返答を少女は疑問に思う。会ってみたいな、と少女は思った。姿はみたことがあった。でも話したことはなかったのだ。少女は口を開こうとして、はたと思いとどまった。フェイトが少女の手をぎゅっと握っていた。
「……会いたい?」
 泣きそうに聞いてくるフェイトを見てしまえば、少女にはそれ以上続ける言葉など存在しなくなった。静かに口元を持ち上げて、「そうでもないよ」と少女はフェイトを安心させるように手を握り返したのだった。
 だから少女が会話をもったのはフェイトとなのはの二人だけ。それだけが少女に許された。
 なのはとの数度の邂逅は確かに少女の心に何かしらの好意を運んできた。少し話して部屋を追い出されることがあっても、外を散歩する少女のことをなのはは迎えに来ていた。部屋に戻ればフェイトが待っていて、なのはとはドアの前で別れる。――ごめんね、となのはは言う。少女は何故なのはが自分に謝るのか、その理由を知っている。
「フェイトちゃんのこと、よろしくね」
 少女はなのはに何の返答もしなかった。ふいと背を向け、部屋の中に消える。そして暗がりの中で裸のままのフェイトの胸に飛び込み、背中を撫でられる。
 そんななのはを失いかけて悲しいのか、怖いのか――喜ばしいのか。湧き立つ感情を理解するより、フェイトの取り乱し方の異常さに気を取られるのが先だった。フェイトの姿を認めた直後、彼女は部屋を飛び出していった。少女は後を追う。向かった先は山中にある医療院であり、息を切らせながらも辿り着くと、開け放たれた向こう側に重たく瞼を落とした女性がいた。体中のあちこちを包帯で巻かれ、いかにも重体患者と言った風貌の高町なのはが少女の視界に映る。だが少女の胸をより強く揺さぶったのはなのはのそんな姿ではなく、崩れ落ちていくフェイトに気付いたからだった。彼女は唇を震わせながら、なのはの眠るベッドに近づき、そこで膝をついた。
「なのは、……なのは」
 少女はそのときのフェイトの声を今すぐにでも思い出せる。
 場違いなまでの愛の言葉。なのはの耳朶に囁かれた告白を聞く。
「愛してるよ、なのは」
 君がいない世界が生まれなかったことを、すべてに感謝するよ。とフェイトが言う。滅ぼさなくていいからね。
「傍にいるよ。眠っている間くらいは一人でいさせない。……友達だからね」
 少女は耳を塞ぐことも忘れてフェイトの言葉を聴き入っている。
「なのは、私は――」
 フェイトは長い時間眠り姫に語り続けた。そのうちに部隊長がやってき、少女は体が冷えてしまわないようにと六課の隊舎に戻される。部隊長は僅かに眉を歪め、少女の背に掌を添えた。幼き日のなのはを見ていることは少女には容易に感じ取れたが、無論黙っていた。この人もなのはのことを想っていたのだ。皆が皆、自分を通しなのはのことを想っている。少女は抵抗することなく大人しく部屋に戻り、眠る。
 少女は夢を見ない。だけどその日初めて見た夢の中で、少女の掌は赤い木の実を潰したような真紅に染まっていた。

 なのはの目覚めから三日も経った頃、機動六課隊舎の廊下を歩いているとき、菜乃は擦れ違う人の普段は気にもしない声を聞いた。
 年頃の女性と、自分と同じくらいの年の少年少女だった。女性は青い髪を短く肩につかないくらいに切りどこか少年らしい顔つきだが、彼女の表情と仕草、服装がまぎれもない女性だと言っている。少年は鈍い赤髪を乱雑になびかせて、桃色の髪をした小さな女の子の隣を往く。
「なのはさんは本当に自分から死にに行ったんでしょうか?」
「分からない、けど否定はしなかったって部隊長は言ってたし」
「なのはさん、任務に向かう前は、ヴィヴィオがいなかった期間よりもずっと明るくて平気そうに見えたのに」
「でもティアさんだけは気にしてましたよね」
「そうだね。あたしたちの中でなのはさんのことを一番見ていたのは、きっとティアだから」
 彼女たちはみな一様に項垂れた。漂う空気は陰鬱で、光景は異様である。菜乃はぼんやりと窓の外を見つめるふりをしながら彼女たちの話をさらに深く聞き入れる。
「自分から死を受け入れてしまうなんて、僕は、僕たちはきっと近くにいたんだ」
 少年が言うと、女の子も俯く。
「なのはさんのために、私たちは何もできなかったのでしょうか」
「キャロは悪くないよ、誰も悪くない。だからもっと元気出して、ね」
「でも、もっと何かできたはずなのに」
 桜色の髪の女の子が、俯く。その背を隣を歩いていた少年が優しく支える。大丈夫と笑いかけるのは、青髪の女性である。彼女たちを菜乃は幾度か目にしたことがあった。なのはの教え子で、幼い頃の少年少女はフェイトが保護する子供たちだ。名前までは思い出せないが、菜乃は知っている。
「なのはさんを心配する人はたくさんいるから、それにティアもついてる、大丈夫。それよりもあたしが心配なのは」
「ええ、ティアさんも酷く落ち込んでました。今日もお見舞いに?」
 青い髪の女性が頷いた。
「なのはさんも、ティアさんもフェイトさんもヴィータ副隊長も。事件が終わったあとでも私たちの周りには悲しむ人が溢れているのに、私たちは見ているだけなんて」
「仕方ないよ、だって僕たちは結局部外者で何もできないし、しちゃいけないんだ。何もしないよりいいっていうけど、例外はどこにだってあるに違いない。それが今なんだ」
「エリオくん」
「だからさ、見守っていよう。じっと。フェイトさんならおそらく大丈夫だよ」
 女の子は目に涙を溜め、だがしっかりと頷いた表情で少年のことを見つめた。一歩先を歩く女性はそれ以後会話に参加せず、何か考え事をしている風である。フリだけだ。彼女は何かをしていなければならないような気がしていたのだ。
 少女は彼女たちの横を通り過ぎる。次の瞬間にはもう、真っ先に医療院へと向かったフェイトへと想いを馳せている。でもそのフェイトはなのはのことだけを考えているのだ。

 夕暮れの間際、少女は医療院にこっそりと忍び込む。さほど人が詰まっているわけではないため、なのはは個室を宛がわれていた。扉には高町なのはの名前が、灯火の下に浮かんでいる。菜乃は扉を開ける。
 特別言いたいことがあるわけでも、したいことがあるわけでもない。しかし何かが急かしているのは間違いなく、少女はその正体を壁に力いっぱい突きつけてやりたかった。
 十九時にもなると廊下を歩く人も少なかった。看護師も食後の検温と検圧を終えてナースステーションにこもっているし、患者は消灯前のこのひとときを各々歯を磨いたり本を読んだりニュースを見たりなどして過ごしている。しかしなのはは出歩いたりしない。出歩ける体ではないのだ。
 音のしない扉を引くとまず淡いクリーム色のカーテンが目についた。ベッドの周囲を囲むカーテンをなのはは引いたままにしてある。まるで外界から自身を隔離しようとしているみたいに。なのはの性格は底抜けに明るいとは言えなかったが、少なくとも人を排斥するような鬱積した暗さは見られなかった。むしろ人を惹きつけた。だが少女は、なのはの心にまでは入らせない残酷さがここにあるような気がした。
 そしてからっぽである。少女が初めて目覚めたときにいた部屋がちょうどこんな感じだった。無心のまま局員のいくつかの質問に答えていると、金色の美しい女性がふわりと現れたのだ。外で雪の降る音がした。あれはなんという音だっただろう、フェイトの髪と雪が触れ合う音と同じくらい、寂しく静かだった。少女はだから雪が降るとフェイトと手をつないで外に出たくなった。靴で雪を踏み締めるたび、少女の胸も軋んでみせた。
 来訪者に気付いたなのはは、どうぞ、とにこやかに応答した。少女は無言でカーテンを引く。
 カーテンがたたまれ、部屋全部を見渡してみても、あまり変わりばえはしなかった。ほんとうに何もない部屋だ。ベッド脇のクロークに置かれた花瓶に活けられた花以外、めぼしいものはなかった。テレビもない。雑誌もない。常に共にあった紅い宝石も見当たらない。ただ数冊の本と一枚のCDがあるだけだった。
 どうぞ、と椅子を勧めるなのはの真正面に立った。なのはも上体を起こし少女の方を向く。
「言いたいことがあって来ました」
 そんなものはなかった。少女はどうしても椅子には座りたくなかったのだ。
「フェイトちゃんのことです」
「フェイトちゃん?」
「心配してます。フェイトちゃん、あなたのことをすごく心配してるんですよ。知ってますね」
 他人の前で呼んだ初めての“フェイトちゃん”だった。言葉にしてから菜乃はしまったかなと思ったが、ほんとうに間違えたのか定かではない。こぼれた呼び名は意図的ではなかったと、少女は自分を信じたい。
「あなたなら、フェイトちゃんの不安や懸念を取り除く言葉のひとつやふたつ、言えるんじゃないですか。どうして言ってあげないんですか。私が言うことではないかもしれない、だって部外者です。はなはだしいと、そう思うかもしれない。けれど見ていられないんです」
「ねえ、わたしにはそんな万能な言葉なんて持ち合わせていないよ」
「万能? 簡単な言葉があるじゃないですか。あなたが言って、受ける側がフェイトちゃんであるならそれはとても簡単な言葉」
 そこまで言っても本当に分からない様子のなのはが少女にはおかしかった。
「フェイトちゃんが好きだよ。フェイトちゃん以外のところにはもう行かないよ。だから安心して、もう大丈夫だから――それだけです」
「それは……」となのはが口ごもる。「簡単とはとても言えない」
「簡単ですよ。だってあなたと同じ遺伝子をもった私に言えるんです」
「じゃあ」となのはが口を開きかけたので、少女は遮った。
「私が言っても意味ないってことは、前置きしましたよ。あなたがフェイトちゃんに言うから効力を持つんです。……あなた以外の誰が言っても意味がないんだよ」
 なのはが黙ると、足音がかつかつと聞こえてきた。診察だろうか、少女はしばし耳を澄ませるが彼らは通り過ぎて行った。
 夕闇が少女の体に馴染んできた頃、なのはが重たげに首を振った。その動作に少女の胸が熱く焼けつく。この人は結局、フェイトのことをなんとも思ってはいないんじゃないかという疑惑が湧いたのだ。同時にこんな人をフェイトはずっと想っていることが腹立たしくてならなかった。いっときでもなのはに好意を抱いたことさえ我慢ならないほどに。
 少女は拳を握り締める。魔法を学んでいたら今すぐになのはを貫いていただろう。満足に動かせない身体をした今のなのはなら、たとえエースオブエースなどと大層な呼び名を与えられていたとしても防ぐことは出来ないだろう。なのはがいつも首から下げている相棒はここから遠く離れたところにある。そんな彼女を殺めるなど造作もないはずだ。少女の拳が震える。
 闇は深まり、室内は徐々に冷え込んでくる。身震いを覚えるが、怒りの為なのか寒さの為なのか最早少女には判断がつかない。
「菜乃ちゃん」
 なのはは白い布団の上にかかっていたタオルケットを一つ差し出した。
「ごめんね、だけどわたしがフェイトちゃんに言えることはないよ」
 自分を気遣っているのだと理解して、なんでその気遣いをフェイトに向けてやらないのかと場違いな怒りにも激しく襲われた。今はなのはの言葉の全てが耳障りに聞こえるのだ。
「じゃあどうしてもっとはやくに拒絶しなかったんですか」
 いまのようになるまで、いくらでも機会はあったはずだ。たとえば任務に出る前にフェイトの部屋に来たのは、あれは間違いだった。それ以前に頻繁にしたフェイトとの逢瀬も今のフェイトに導くのに一役買っていると少女は考えていた。どれもなのはの中途半端な優しさのせいではないか。
「あなたがもっと、なんとかすればよかったんだ。悪いのはあなただよ。だってフェイトちゃんは悪くない」
 あんな優しくて一途に思っているだけの人が悪いはずがない。
 少女もまた盲目的にフェイトを信じ、愛し切っていた。それはフェイトがなのはに向ける愛に似ているようで、まったく異なっている。
「あなたのような人、私」
 唇を噛みしめた少女が、ふと思う。自分の名前をフェイトは久しく呼んでくれていないと。その名前を、なのはが呼んだのだと。
 なのははじっと少女を見返している。疲れきった瞳の青に、醜く激昂する自分の姿を見る。同じ色の似ても似つかぬ、それは愛された瞳であり、しかも昏い孤独を巣食わせている。なのはは向けられた怒りを流すこともはね除けることもなく、受け止めていた。
「私は、大嫌い――!」
 手渡されたタオルケットをベッドに投げつけると、なのはをきつく睨む。そのまま病室を飛び出した。庭を走り抜ける。闇がかきまぜられ、月の淡い光が照らす以外なんの明かりもない道を少女は駆けた。
 少女はしばらく走ったあたりでどうしようもなく息が切れて立ち止まった。両膝に手を置く。荒い呼吸が白く漂っていた。鼓動がしきりに鼓膜を叩いてうるさい。
 あれだけの大声を出したのだ、きっとすぐに看護師が来てなのはに様子を尋ねるだろう。困ればいいんだと少女は思う。なのはは絶対に自分のことは喋らないはずだ。だって、自分なら――自分は何を言ったんだろう?
 どうにか自室に戻ると、冷えた汗が急速に体を冷やしていくのを感じた。膝ががくがくと震えている。少女は扉に背を凭れ、そこから崩れ落ちた。胸に手を当てて、震える脳で自分の行動や言葉を思い返した。真摯に受け止めながら青ざめた顔のなのはが浮かぶ。額に掌を当てて、ゆっくりと考えようとするが、うまく集束がつかなかった。思考はばらばらに散らばり、拾い集めることができない。
 いつの間にか薄暗いだけだった夜は暮れきり、窓から月の光が差し込んできた。晴れの日に稀に降り注ぐ、全てを貫くほどの強い光だ。
「どうしたの」
 突然扉が開き、背中から倒れそうになるのをフェイトが受け止めた。少女はフェイトの紅い瞳を見上げる。でもうまく焦点が合わなかった。
 尋常ではない少女の様子に、しかしフェイトは頓着しない。
「あの人に……」
「なのはに?」
 さまざまなことが手からこぼれていくようだった。だから少女はつい口からもこぼしてしまった。
「私、あの人のことが嫌い」
 あの人と言っただけで、それがなのはであると考えるフェイトに今更心を揺らされて言った。
「最低だよあの人、なのはさん。もうお見舞いにも行かなくていいよ、部屋にも入れないで」
 わからないというようにフェイトが少女の顔を覗き込む。何があったのか。
「お願い、フェイトちゃん」
「無理だよ」
 フェイトは首を振った。力ない仕草に、病室で見たなのはを思い出す。それが余計に少女の心を荒らせた。フェイトの服に強くしがみつく。
「なんで、どうして。フェイトちゃん、私のお願いはいつも聞いてくれてたのに」
「だって無理だ!」
 部屋にフェイトの声が轟く。フェイトの初めて聞いた叫び声だと、その時の少女は気付けない。フェイトの顔は苦痛に染まり、酷く辛そうに歪んだ。
「どんなお願いだって聞いてあげたい。でも気付いているんだ、本当は。私にはなのはだけが必要なんだって。なのはと全く関わらない私なんてもう私じゃないんだ。だからどれだけなのはが私のことを突き放したとしても、振り払われたとしても我慢はできるよ。でもね、私から離れていくことだけは絶対にできない」
「じゃあ私は何なの? フェイトちゃんにとってあの人の代わりなら、私でいいじゃない。私ならフェイトちゃんが小さい頃できなかった何でもできるし許せる。どんなことをしてもいい。だって私はフェイトちゃんしか見ていない、“フェイトちゃんだけのなのは”だよ」
 少女は縋るようにフェイトを見上げる。服を掴むと胸に指が食い込んだ。少女は考えつくままにフェイトの服を脱がし始める。以前フェイトが自分にしたように、鎖骨に唇を当てた。吸うことを知らない幼い少女が、急かされるままに歯を立てて痕を残す。幾度もなのはが触れただろう乳房に手を添えると、フェイトは少女の頭に手を添えた。
「……なの」
 少女は行動の一切を停止する。他人の迷惑を考えることを生まれる以前から刻み込まれた少女は、たったそれで拒絶されたのだと素早く理解した。
「私は、あの人の代わりにすらなれなかったのかな」
 少女は声を震わせながら、漏れそうになる嗚咽を堪える。感じていたことを言ってしまうと、なぜか自分がひどく惨めに思えてくる。分かり切ったことを問わなければならない自分が情けなかった。これではフェイトに幻滅されてしまうだろう。溜めこんできたものを、早く呑み込まなければ。
 しかし少女は動けない。言葉は吐き出されたままになっている。フェイトの胸が少女自身の涙で濡れていく。
「なのはは、人前では泣かないんだ」
 そんな悲しそうな泣き顔を見たことがなかったとフェイトが言う。見たのは出会ってすぐの頃と、ヴィヴィオが攫われたとき、その二度だけだ。
「泣けないくらい不器用なんだ。私がいたからって泣く場所を提供してあげることはできないけど、でもなのはには私がいないと駄目なんだ」
 ――ヴィヴィオがいても?
 ――そうだよ。どれほど強い騎士がいても、どれほど真っ直ぐになのはを慕う人がいてもだ。
「だから君のお願いは聞けない」
 泣いていたのは少女だったが、ずぶ濡れ、ぐったりとした子猫みたいに震えていたのはフェイトの方だった。彼女の声はか細く、けれど雨に紛れることがない。彼女が上げる鳴き声は少女に見つけてもらうためではなく、なのはの心を惹く、ただそのためだけのものなのだろう。
 だがそうと分かっても、少女にはフェイトしかいなかった。頼る人も知る人も、フェイトだけだったのだ。
「フェイト、フェイトちゃん」
 自分から離れようとする彼女を引きとめようとする。だが少女はフェイトに突き放され、壁に背をついた。驚いて少女は目を見開きフェイトの方を向くが、彼女は後ろめたそうに目を伏せてしまい、もう少女の顔を見返しはしなかった。彼女は床にうずくまり、少女をはねのけている。明確なまでの拒絶だった。
 そんなフェイトに手を伸ばすことなどできない。少女は立ち上がった。俯いたフェイトからふらりと離れ、部屋を出ていく。向かう先は医療院である。

 悲しいだろうか。フェイトがさんざんに呼んだ愛しい人の名前は頭に刻まれ、少女の足を動かす。部屋を出る前に手に取った幽かな想い出の宿る品を白いバーカーについたポケットに忍ばせて、少女は向かっている。道すがら転べば、自らを傷つけてくれるだろう。腹を貫く。運が良ければ胸を。少女はもしかするとそれを望んでいたのかもしれない。自分以外の誰も傷つけなくて済むのは、恐らくその方法だけであった。
 だけれども少女は足をしっかりと進ませ、辿り着いてしまった。やらなければいけない、と少女は思う。自分がここに存在するならば、必然なのだと。
 少女は刃を掌に滲ませた。鞘のない剥き出しの刃は指の皮を裂く。部屋でフェイトがよく手にしていたナイフだった。フェイトは温和な笑みで、優しげな手つきで少女に果物を剥いて食べさせた。リンゴが多かった。でも今フェイトにリンゴを剥いてもらっているのはなのはだった。切り、擦り下ろしたリンゴを食べているのはなのはだ。でもなのははそれがこの世における極上の幸せだと認めなかった。それでいて、フェイトの愛を受け入れている事実が堪らない。

 とっくに院内は消灯が過ぎており、なのはは寝ているものだと思いこんでいた。だからベッドに近づいた時、彼女が体を起こしたことは少女の身体を竦み上がらせた。
「どうしたの?」
 なのはは小さなライトをつけ、にこりと変わり映えのしない笑顔を浮かべる。なのはの笑みに少女はいつも言葉を喉につまらせてしまう。自分の笑顔とどこが違うのか、鏡の前で自らのそれを見比べても判断がつかなかった。
 嫌いだと言い放ったすぐにこんな笑顔を見せられて、少女は思いの他動揺していたのだろう。それか、なのはの前では言葉を失うあの現象に再び陥ってしまったのか。呼吸や空気が止まっている。走ってきたときのままの息苦しさを抱えながら、少女はなのはを無心で見つめてしまった。少女は運動が得意ではなかった。少し走っただけで、階段を上り下りするだけで疲れてしまう。幼い頃のなのはもそうであったことはフェイトしか知らない。そしてフェイトは少女になのはについての多くを語らなかった。
 なのはのことを、少女はほとんど知らないのだ。
 少女の興味はすべてフェイトにのみあった。だが今日なのはに触れて、不本意ながらもなのはを知ることとなった。それはそのまま謎を抱えることになる。知れば知るほど、どうしてか理解した気になれない。
 だからなのはについて、少女はもう考えない。素早くナイフを取り出して、彼女にただ突きつけた。魔法じゃなくてもいい。こんなものでも首を這う頸動脈を断てば、心臓を抉るように胸を差せば命は奪える。なのはが無抵抗ならそれくらいはできる。
 ――だから、これはきっと短絡的なことなんだ。
 頭の中の冷静な部分が耳元に囁く。でも、それがなんだというのだ?
 ごめんなさいとは言わない。謝るべきは自分ではないはずだ。少女が腕を振り上げ、呟く。
「私にはフェイトちゃんしかいない」
 勢いよく噴き出したなのはの血飛沫が、服に散った。

 少女は、彼女がどこかで刃を避けないでいてくれるだろう、と思っていた。蒼い瞳に全てを受け入れるような錯覚を見ていた。だからどうにかナイフを持ち出し、彼女に向けてやればあとは吸い込まれるように肉を裂き、血を流させることができるのだと信じていた。
 血が手首から滴り落ちていく。なのはの、掌に冷たい鋼の刃が食い込んでいる。彼女のその手でもって止められたのだと知った。
「応じるわけにはいかないんだ」となのはが言った。
「わたしはまだ死ねない」
 その言葉に少女の頭がかっと熱くなる。
「この期に及んでまだ生きたいんですか、あなたは?」
 そうじゃない。なのはが言う。
「そんなことはどうでもいい。わたしが生きるのはわたしのためじゃない」
「何言ってるのか意味がわからないよ。自分のために生きなくて、じゃああなたはなんだっていうの?」
「……もし、わたしがわたしのために生きているとしたら、すぐにでもここを抜け出しているよ」
「でも歩けないよね」
 傍らに潜む車椅子に少女は意識をやる。
「それにその怪我でいったいどうやって」
「傷自体はほとんど塞がっているよ。じゃなかったら向かってくる刃物は止められないし、もし抜け出した先で力尽きたとしても一向に構わないんだ。だって今すぐにいきたい、本当は……。空を飛べなくなってもいい。歩けなくてもいい――会いたいの」
 ヴィヴィオ。
 ヴィヴィオに会えたらそれでいいとなのはは言った。未だ見舞いにこないヴィヴィオのことをなのはは想う。
「会いたいよ、ヴィヴィオ」
 点滴がいまだ繋がれたままのなのはの腕を、血が流れていく。ずっと腕を持ち上げていたせいだろうか、管の中は赤く染まり、逆流していた。なのはは自身の命にどれほどの価値を感じているのか、少女は考えると背筋が冷えた。
 それでも会いに行かないのがフェイトのためであることは少女にも分かった。フェイトだけではない。はやてや他のなのはを想う色んな人のために動けないし、生きている。なのはの生はもうなのはの手から離れてしまっているのかもしれない。なのははそれをよしとし、受け入れていた。彼女は自分を殺す自由さえ放棄している。
 フェイトのことだけを想い、行動できる少女には到底理解しがたい、そして理解したくない理由だった。そんななのはの心の機微などどうだってよかったのに。
 ポケットから取り出す時でさえ躊躇わなった腕が震えている。この人をどうにか殺したところで、きっと何も変わらないだろうし、フェイトはさらに自分を敬遠するようになるかもしれない。憎しみまであらわさなくても、心は永久になのはに囚われたままとなるだろう。何より少女は、この高町なのはを殺める意味を既にどこにも見出せない。
「だからこれは受け入れられない」
 優しい首振りが、なのはの流す赤い雫とともに降り注がれる。この人を手にかけることは、少女にはできそうもなかった。
 少女はフェイトを想いここに来ていた。だがなのはもまた一途にヴィヴィオのことを想っている。その生を他のすべてに差し出してでさえ、彼女の心はヴィヴィオにしかないのだ。それが少女には美しいもののように映った。道を歩くとき不意に横切った猫の瞳みたいな美しさ。透き通るガラスの青が、光を浴びて眩しい。
 “自分とどこが違うのか”、考えることにもまた意味がない。違う部分を見つけても同じ部分を見てしまっても、結局なのはと少女は違う存在であり続ける。なのはには少女のようにフェイトだけを見ることはできないし、少女にはなのはのように愛する者を放棄してまで他へ身を投げ打つことはできないのだ。
 結論は早かった。少女の心がこのときはっきりと決まる。
 ナイフを再びポケットにしまうと、くるり踵を返し、病室を出ようとする。その少女の背に、なのはが一言、「帰るの?」と問いかけた。
「ええ。ちゃんと元の場所に」
 たしかになのはは受け入れてはくれなかった、が。受け止めてはくれたのだ。
 少女はなのはを振り返った。先ほど刃を向けた自分さえ心配そうに気にしている。少女はなんとなくなのはの座るベッドに引き寄せられるように、開きかけた扉を閉めた。気にしているのは自分の方だったのかもしれない。なのはは確かに不器用だった。少女はなのはの、細く傷だらけの腕に抱かれてみたくなったのだろう。何も考えず、愛も求めず、無言で自分を認めてくれるだけの抱擁が欲しいと思った。もちろんそんなことは言いだせない。
 だがそこにふっと重みが加わった。頭に乗せられた軽い重みの正体に少女は気付きながら、しかしそのままでいた。彼女の手を、もうしばらくは払いのけたくはなかった。
「フェイトちゃんのこと、好きですか?」
「大好きだよ」
 俯き、くぐもった声になのはが返す。少女はにっこりと笑った。


 機動六課に戻ってくると、少女は海岸へと足を運ばせた。
 ぐっしょりと濡れていた掌は渇いて、握るとぱらぱらと血の痕が剥がれてきた。少女は顔をあげ、仄明るい夜空を眺めた。良く晴れた夜で、月が丸く丸く白い光に縁取られて、とても美しい情景だ。絵本に描かれていた夜空に似ている。ここに赤い月はないし、水面は一切煌めかず暗黙を保っているけれど。
 瞳を赤く焼かれた金色の髪の人だっていない。あの人はたった一人のための王子でありつづけるから、たとえ隣にいたとしてもそれは王子などではない。
 フェイトは今もなのはのことを考えているのだろうか。
 コンクリートの階段を降りると、片足ずつ水に浸けた。潮風が乾いた頬と髪とを掠めていく。少女はフェイトに貰ったリボンをほどいた。迷った末に、一緒にもって行くことにした。例えばこれがなのはに似せようと買ってくれたものでも、少女にとっては紛れもなく自分自身にプレゼントしてもらったものである。右腕にきつくきつく結ぶと、少女はまた身を冷たい水の中に沈める。ゆっくりと流れていく少女の時間の中で、様々なことが思い浮かべられた。
 フェイトがもう菜乃のことを必要としていないのは本人がはっきりと言っている。ならば少女ができるのはひとつしかない。
 ここに来る前、部屋に少しだけ寄った。フェイトは部屋を明るくしたままで床に眠りこんでいた。少女はそんなフェイトの体に毛布を被せてやった。風邪を引いたら大変で、放っておけない人だなあと少女は口元を歪めた。少女がいなかった時間、フェイトが一人でやってきたとはとても思えない。でも。そんなとこも愛しいと思ったのだ。乾ききらない涙を指で拭おうとしたが、自身の手はなのはの血で濡れていることに気付いてやめる。ふっと笑い、自嘲気味に手を引っ込めた。
 友達になってくれたフェイト。恋人よりも家族よりも大切な友達。フェイトは病室でなのはに語っていた。「……友達だからね」この言葉が少女に向けた言葉と同意ではないことなどとっくに感じていた。
 だから少女は言葉も何も残さず、部屋を後にする。フェイトとなのはの始まりは海の見える公園だったという。機動六課にも海はあった。ならばこれほど相応しい場所が他のいったいどこにあるだろう。
 少女の肩までが海水に浸かった頃、体中が凍えていた。冬の海でよかった。この分なら胸をえぐる必要もなさそうだと少女は安心する。これ以上胸が痛くなったら泣いてしまいそうだった。
 でも、悪くない。フェイトに会えなくなること以外は悪くなかった。
 少女は海に沈んでいく。白く大きな月が頭上で少女を見守っていき、やがてその全身を飲み込んだ。海の底には求めたものこそなかったが、絵本のいいたいことは理解したような気がした。少女が心に浮かべたことはそれが最後だった。
 手首に結んだ白いリボンが水中で揺れる。少女は目を閉じ、終わりを見る。

     *

 フェイトが目を覚ました時、寝起きの悪い彼女には珍しくはっきりとした覚醒だった。かけられた毛布を握りしめ、フェイトは現状をすぐさま読み取る。
 なのがいない――。
 腕に抱いて眠るのが癖になっていたのに、やけに寒かったのはこのせいだ。フェイトは眠りに落ちる前に自分がしたことを思い出し、甚だ後悔した。あの子を突き飛ばしてしまった自分が信じられない。
 フェイトははっとして立ち上がると隊舎を飛び出した。必ず見つけなければいけない。言ったことはすべて本当だったが拒絶することはなかった。嘘はなかったからこそ、もっと優しい物言いだってできたはずなのだ。だから探しに行こう、とフェイトは手の中のバルディッシュにお願いする。優秀なフェイトのパートナーはすぐに少女の位置を特定してくれた。フェイトは安堵するが、それも一瞬のこと。場所が海の底であると告げられればすぐに醒めた。息が詰まる。
 フェイトがバリアジャケットを纏い海に潜ったのは、終わりが過ぎ去った後だった。
 少女の身体を抱き上げると、フェイトはそのまま海岸の石造りの床に膝をついた。小さな体がこんなに冷たく凍えるまで、暗い海の中にいたかと思うとフェイトはやりきれなかった。なのはを一人きりにしたときのような遣る瀬無さが胸にわだかまる。後悔が次から次へとわが身を責めてきて、いっそう強く少女のことを抱き締める。ずぶ濡れの少女の体を抱くとフェイトの長い金髪も濡れた。
 バリアジャケットがフェイトの身を守っているが、この少女にはなかった。なのはの魔力を引き継でいたがフェイトはそういうことに関わって欲しくなくて、関わらせないようにしていたのだ。魔法はいつか少女のことを奪っていくのだとフェイトは考えていた。少女は魔法について何も言わなかった。学びたいとも、大きな興味を示したことも。けれど今思えばフェイトを気遣って口を閉ざしていただけなのだろう。無垢な少女を部屋に閉じ込めた挙句の、拒絶。少女にはフェイトしかおらず、考えればわかることだったのに。今更「なのはしかいない」と言い、海の底へ追いやった。
 涙が海の雫とともに頬を流れ、首筋を伝う。
 フェイトは夜が明けるまで菜乃を腕に抱く。今更温めることはできないけれど、フェイトにはそうする他を思いつけなかった。
 そこになのはがやってくるという残酷な錯覚にフェイトは陥る。やってくるなのはの姿をフェイトは目にする。少女を抱くフェイトの肩をなのはが包み込むという幻想に浸れば、フェイトは静かに意識を落とした。
 誰もが眠るその暗い地面に、冷えた月が白い光で彼女たちの残酷な夢を映し出す。
 “無の世界に二人だけ、どうして生まれることができなかったんだろう?”

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